働かざる者
四日目の朝。粥をきれいに平らげた華恋は、さっそく動き出した。
「ねえ、エマ。この世界の本って、どこにあるの? 図書室とか、ないの?」
「書庫なら、二階の奥にございますけれど……鍵は、侍女長様のお預かりです」
「侍女長様って、どんな人?」
エマの顔が、あからさまに曇った。
「……お厳しい方、です。その、いろいろと」
歯切れの悪さが、答えのようなものだった。
◇
とにかく、部屋にいても何も始まらない。
華恋は着替えて、廊下に出た。この世界に来て、はじめての探検だった。
すれ違う侍女に「あの」と声をかけると、深々と頭を下げられた。
「申し訳ございません、急ぎの用がございますので」
ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。次の侍女も、その次の従者も、同じだった。庭に出れば、談笑していた庭師たちが、水を打ったように黙り込む。
角の向こうから、ひそひそ声も聞こえた。
「――水晶、光らなかったんですって」
「関わらないほうがいいわよ。どこで誰が見てるか」
華恋は立ち止まって、肩をすくめた。
(……あっそ)
悔しくないと言えば、嘘になる。でも、廊下で落ち込んで解決するなら、とっくに家に帰れている。
誰も教えてくれないなら、本に聞くまでだ。
「すみません。侍女長様って、いまどこにいますか」
床を磨いていた下女に尋ねると、彼女はぎょっとした顔で、一階の奥を指差した。
「リ、リネン室に……今日は、検品の日ですので……」
「ありがと」
◇
リネン室の扉は、開け放たれていた。
積み上がった布物の山。その前に、鉄灰色の髪を一筋の乱れもなく結い上げた、年配の女性が立っていた。糊の効いた紺の制服。腰には大きな鍵束。片腕に抱えた分厚い帳簿へ、検品の結果をひとつずつ書き込んでいる。
かたわらに控えた若い侍女が、華恋に気づいて息を呑んだ。
「侍女長様、あの……お、お客人が」
なるほど、この人が。
「はじめまして。あの、書庫の鍵を貸してほしいんです。この世界のことが知りたくて。本が、読みたいんです」
侍女長はペンを止め、顔を上げた。
値踏みするような視線が、頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくり往復する。皇太子のそれより、ずっと露骨で、ずっと事務的な視線だった。
「これは、ご丁寧に。……ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
慇懃無礼、という言葉を、華恋は身体で理解した。
「あなたは召喚されてから今日まで、何をなさいましたか。祈りましたか。働きましたか。それとも――いちばん上等な部屋で、三日、寝ていらっしゃいましたか」
「……」
「この離宮では、働かざる者食うべからず。それが決まりです。水晶も光らせられないお方を、聖女様とお呼びするのも烏滸がましい。不必要な居候の身であれば、それらしくなさいませ。本をお読みになりたいのなら――そうですね、洗濯場の一番汚れたシーツでも洗ってから、おっしゃることね」
かたわらの若い侍女が、小さく息を呑むのが分かった。
ふひつよう。
古い傷が、ちくりと疼いた。
「わかりました。じゃあ、洗濯したら『働いた』ことになるんですよね。働いたら、本を読ませてもらえるんですよね」
「…………は?」
「洗濯場って、どこですか」
侍女長は、束の間、本気で言葉を失っていた。それから、取り繕うように顎を上げた。
「……裏手の、井戸の奥です。灰汁と刷子は納屋に。やり方は、そこの者にでもお聞きなさい。――教えてもらえれば、の話ですけれど」
「どうも」
言質は取った。華恋は軽く頭を下げて、踵を返した。
背中に刺さる視線が困惑の色をしていることには、気づかないふりをした。
◇
離宮の裏手の洗濯場は、湯気と石鹸と灰汁の匂いでいっぱいだった。
大きな洗い場、井戸、干し場の白い列。働く女たちの手が一瞬止まり、視線がいっせいに突き刺さる。
「あの、シーツを洗いに来ました」
視線は、すっと逸れた。
誰も、何も答えない。女たちは何ごともなかったみたいに、それぞれの洗い物に戻っていく。
(……はいはい。そういう感じね)
わかりやすくて、いっそ清々しい。
華恋は納屋を覗いて、それらしい木箱と刷子を引っ張り出し、隅の空いた洗い場に陣取った。そして例の山から、いちばん汚れていそうなシーツを一枚、引き抜いた。
重い。乾いていてこれなら、濡れたらどうなるんだろう。
答えは、すぐに出た。井戸の水は切れそうに冷たくて、汲んで、運んで、こぼして、また汲んで。水を吸ったシーツは岩みたいになった。灰汁はどれだけ入れればいいのか分からない。刷子でこすってもこすっても、泥染みはにじんで広がるだけ。
「……いつの時代の洗濯よ、これ」
思わず、声に出ていた。
「洗濯板とか灰汁とか、歴史の授業でしか見たことないんだけど。しかも、詳しいやり方までは習ってないし。……洗濯機は? ドラム式は? 乾燥機能は? 聖女は召喚できるのに、洗濯機はないわけ? この世界、文明の優先順位おかしくない?」
ぶつぶつ言いながらも、手は止めない。
ふと気づくと、周りの水音が、止まっていた。
女たちが手を止めて、こちらを見ている。怒っているのではなくて――全員の頭の上に、はてなが浮かんでいる顔だった。せんたくき。どらむしき。かんそうきのう。誰も知らない言葉の群れが、湯気の中をふわふわ漂っていく。
そのとき。
「ねえねえ」
つん、と袖を引かれた。
見下ろすと、小さな女の子が立っていた。年は十二歳くらいだろうか。そばかすと、赤いほっぺの、よく日に焼けた顔。その目だけが、きらっきらに光っている。
「せんたくきって、なに?」
「え? あ……えっと。ボタンを押すと、勝手にぜんぶ洗ってくれる箱、みたいな」
「勝手に!?」
女の子の目が、まん丸になった。
「絞るのも!?」
「絞りも勝手。乾燥機能つきなら、干すのも要らない」
「なにそれ! 魔法の箱じゃん!」
「でしょ。私もいま、心からそう思ってる」
しみじみと頷き合ってから、女の子はあらためて華恋の手元を覗き込んだ。そして、遠慮のかけらもなく言った。
「……お姉ちゃん、洗濯、へったくそだね」
「うるさいな。初めてなの」
「灰汁はね、お湯で溶かなきゃ効かないんだよ。あと、シーツはこすっちゃだめ。踏むの」
女の子は返事も待たずにシーツを大盥へ引きずり込み、湯汲みから灰汁まで、ちゃっちゃと支度してしまった。裾をからげて、小さな足で、ざぶ、ざぶ、と踏みはじめる。泥色の水が、みるみる押し出されていく。
「……すご」
「毎日やってるもん。ほら、お姉ちゃんも」
華恋は靴を脱いだ。
冷たかった。死ぬほど冷たかった。
「つっめた!」
「あはは、顔! 顔すごい!」
女の子がけらけら笑って、周りの女たちの何人かが、つられたように吹き出した。張り詰めていた洗い場の空気が、湯気と一緒に、すこしだけゆるんだ。
「あたし、ミナ。お姉ちゃんは?」
「華恋」
「カレン! へんな名前!」
「お互いさまでしょ」
◇
夕方までに華恋が洗い上げたシーツは、たったの四枚だった。
「四枚かぁ。あたしの、半分だね」
ミナが干し場の白を数えて、得意げに胸を張る。
「……明日は、追いつくから」
「ほんと? 明日も来るの?」
「来る。本、読みたいから」
「そうなんだ!」
けらけら笑うミナの向こうで、夕暮れの風に、洗い立ての白がぱたぱたと揺れている。
腰は痛いし、手は赤いし、指はふやけてぼろぼろだった。
響華恋、十五歳。異世界での初仕事は――洗濯係だった。




