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あーんです

その日の昼も、エマは何ごともなかったような顔で、部屋の仕事をしに来た。


カーテンを半分だけ引き、水差しを替え、薬草の煎じ汁に蜂蜜をこっそり足しているのが、布団の隙間から見えた。そして、よく喋った。庭園の薔薇のこと。洗濯係のおばさまのこと。はじめて城に上がった夜、実家が恋しくてこっそり泣いたこと。


返事は、しなかった。


「お昼、こちらに置きますね。気が向いたら、スープだけでも。ひと匙で構いませんから」


「……結構です」


「あ、それと。夜中にお腹が空いたら、遠慮なく呼んでくださいね。厨房番のおじさまを起こすのは、得意なんです。合言葉は『焦げてますよ』。これで飛び起きなかったことは、まだ一度もありません」


布団の隙間からちらりと見えたエマは、とっておきの内緒話みたいに声をひそめて、得意げに片目をつぶっていた。


……なにそれ。


ちょっとだけ口元がゆるみそうになって、華恋は慌てて、布団を頭まで引き上げた。


   ◇


夜のエマは、すこし粘った。


粥と、澄んだスープと、白い果物を小さく切ったもの。選べるように、三種類。


「どれかひとつだけでも、いかがですか」


「……いりません」


「粥がだめなら、スープでも。スープがだめなら、果物をひと切れだけでも」


「いらないって、言ってるじゃないですか」


尖った声を出した自分が、嫌になる。エマはそれでも引き下がらず、ベッドの脇に膝をついて、目の高さを合わせてきた。


「聖女様。昨日の晩から、何も召し上がっていません。……お願いします。ひと口だけでも」


まっすぐな目だった。仕事の顔ではなく、本気で心配している、人間の目。


だから、見ていられなかった。


華恋は、布団をかぶって背を向けた。


長い沈黙のあと、小さく息をつく気配がして、器の触れ合う音が遠ざかっていった。


責める言葉は、最後までなかった。


   ◇


その夜、遅く。


眠れないまま喉が渇いて、水差しに手を伸ばした華恋は、ふと、窓の外に目をやった。


中庭の渡り廊下を、小さな灯りがひとつ、足早に横切っていく。


……エマ?


灯りに照らされた栗色の髪は、あたりを気にするように一度立ち止まり、それから、角の向こうへ消えた。


こんな時間に、どこへ。


(……侍女って、夜も仕事があるのかな)


考えているうちに、眠気のほうが勝った。


   ◇


異世界に来て、三日目の朝が来た。


華恋はベッドの上で、ぼんやりと身体を起こしていた。眠りが浅いまま朝になって、横になっていることにも疲れてしまった。


ノックの音がして、エマが盆を持って入ってくる。


「おはようございます、聖女様。朝食をお持ちしました。……今朝こそ、召し上がってくださいね」


「……いりません」


「そう仰ると思って、今朝はいつもより柔らかく煮ていただいたんです。せめて匂いだけでも――」


「いらないって、言ってます」


いつものやりとり。いつもの拒絶。いつもなら、ここでエマは「では、置いておきますね」と引き下がる。


……はず、だった。


エマが、無言で盆をベッドの脇に置いた。


椅子を引き寄せ、腰を下ろし、盆の上の小さな皿から、さじで何かをすくう。


そして。


頬に、ひんやりとした指が添えられた――と思った次の瞬間、顎を、くい、と持ち上げられた。


「え」


開いた口の中に、冷たい何かが、ひとさじ押し込まれた。


噛むまでも、なかった。


舌の上で、とろりと崩れて、甘い水になってほどけていく。


(……桃……?)


一瞬、固まってから――華恋は我に返って、信じられない思いで侍女を見た。


「な……何するの!?」


「お食事です」


エマは、しれっとしていた。


「無理やり口に入れた!? 今、無理やり口に入れたよね!?」


「入れました」


悪びれもしない。それどころか、エマはもうひとさじ、桃をすくっている。


「侍女って、そういうことしていいの!?」


「よくありません。ですが、今日で三日目です」


さじを持ったまま、エマはまっすぐに華恋を見た。


温厚そうな顔は、そのままだった。そのままなのに、目だけが、一歩も引かない色をしていた。


「一昨日から、何ひとつ召し上がっていません。……昨日の夜、お医者様にご相談したんです。このままでは、心より先に、身体のほうが壊れてしまうと言われました」


だから、とエマは続けた。


「今朝いちばんに、温室へ行ってまいりました。いちばん熟れた桃を、分けてもらうために」


「……」


「聖女様。あなたは、ご家族のもとに、帰りたいのでしょう」


「……っ」


「帰る方法を探すのでしょう。だったら、生きていなくては。倒れてしまったら、探すことも、帰ることも、できなくなるのですよ。ご家族にもう一度会うためにも、食べて、元気にならないといけません」


正論だった。


ぐうの音も出ない正論を、さじと一緒に突きつけられて、華恋は言葉に詰まった。


なによ、それ。


なによ、その――お姉ちゃんみたいな、言い方。


『はいはい。ほら座って。冷めるよ』


不意に、姉の声がよみがえった。文句を言いながら、最後にはかならず桃を譲ってくれた、あの声が。


目の前の侍女は、姉とはぜんぜん似ていない。栗色の髪も、茶色の目も、敬語も、なにもかも違う。違うのに――怒った顔の奥にある心配の色だけが、同じだった。


「……甘かった」


気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。


「さっきの。びっくりするくらい、甘かったんだけど」


「温室で、いちばん威張っていた枝の桃です。もいでまいりました」


「……あと、いきなりすぎ。さじごと飲み込むかと思った」


「申し訳ございません。次は、お声がけをしてから、いきなりいたしますね」


「それ、いきなりって言わない……」


「では次は、ご自分で召し上がりますか」


エマがさじを差し出してくる。


華恋は、それをしばらく見ていた。


華恋はさじを、受け取った。


小さな皿の上で、淡い色の果肉が、みずみずしく光っている。ひと切れすくって、口に運ぶ。


「……おいし」


言った途端、視界が滲んだ。ぼろ、と涙が落ちて、あとはもう、止まらなかった。


エマが椀を差し出してくれた粥も、素朴な塩味で、お腹の底にじんわりと熱が落ちていった。


まる二日ぶりの食事は、涙が出るほど甘くて、あたたかかった。


泣きながら食べる華恋の背中を、エマはもう何も言わずに、ゆっくりと撫でていた。


あたたかさがお腹に溜まっていくたびに、涙と一緒に、何かが固まっていった。


帰る方法を、絶対に見つける。


誰も知らないと言うなら、自分で探す。この世界のことを知って、調べて、それでもなければ、作ってでも。


そのためには、まず生きること。ちゃんと食べて、ちゃんと眠ること。


椀の底が見える頃、華恋は洟をすすりながら、口を開いた。


「……エマは」


この世界に来てはじめて、自分から誰かの名前を呼んだ。


「なんで……こんなに、してくれるの。私、エマに、ずっと冷たくしてたのに」


エマは、すこし考えるように首をかしげた。それから、なんでもないことのように言った。


「私、弟がいるんです。ひとつ下の、生意気なのが」


「……弟?」


「強がりで、意地っ張りで。熱を出したときほど、『大丈夫』って言う子なんです。……そういう子の『いりません』を真に受けない癖が、ついているんですよ」


「……私、弟扱いってこと?」


「いいえ。聖女様のほうが、ずっと手強いです」


「……変なの」


「よく言われます」


エマがすまして答えたので、華恋は、洟をすすりながら、すこしだけ笑ってしまった。


この世界に来て、はじめて笑った朝だった。


   ◇


その日の昼、華恋は粥を半分、自分のさじで食べた。夜は、スープを全部飲んだ。


そのたびにエマは、大袈裟なくらい、にこにこした。


夜、窓の外の知らない星を眺めながら、華恋はもう一度、心の中で唱えた。


(見てなさいよ。絶対、帰ってやるんだから)


明日からは、この世界のことを知るのだ。そのための元気なら――もう、すこしずつ、戻りはじめている。


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