帰してください
医者が退がり、エマが薬草を煎じるために部屋を出ると、そこには華恋と皇太子だけが残された。
皇太子は、入り口の近くから動かなかった。
「――聖女が倒れたと聞いて来てみれば」
静かな声だった。責めているのか、案じているのか、判別のつかない声。
「……随分な、顔色だな」
華恋はベッドの上から、その顔をぼんやりと見た。きれいに整った、怖い顔。昨日、自分に「不必要」と言った顔。
言いたいことは、たくさんあったはずだった。なのに、擦り切れた喉から出てきたのは、たったひとつだった。
「……かえして」
「……」
「帰して。おうちに……帰して……」
皇太子は、すぐには答えなかった。
やがて部屋の中ほどまで歩いてくると、腕を組んだまま、静かに言った。
「帰す術は、ない」
「……え」
「神託が示したのは、喚ぶ道だけだ。送り返す道は、どの聖典にも、どの文献にも存在しない」
「そんなの……ちゃんと、探したんですか? だって、呼ぶことはできたんだから――」
「三年だ」
皇太子の声が、一段低くなった。
「あの儀式の準備に、三年かかった。国庫から水が漏れるように金が流れ、神殿の人間が昼夜を問わず文献を浚った。俺は、聖女召喚に関わる記録という記録に目を通している。その上で、言っている。帰す術は――ない」
華恋の頭が、その言葉を受け入れることを拒んだ。
「……嘘」
「嘘を言って、どうする」
「だって、それじゃ、私……」
「お前がこの国で果たす役割の話をしよう」
皇太子は、感情の読めない声のまま続けた。
「結界の外では、毎年いくつもの村が瘴気に呑まれて消えている。民は聖女の降臨を三年待った。お前が召喚された事実は、じきに国中に知れ渡る。民は歓喜するだろう。……その期待に、応えてもらう」
「――知らないよ!」
掠れた声が、それでも部屋を裂いた。
「私にも……私にも、帰る理由があるもん」
声が震えた。
「お母さんがいて、お父さんがいて、お姉ちゃんがいて。友達がいて。今日……そうだよ、ほんとは今日、新しくできたカフェに行く約束してたの」
涙で滲む視界の中で、それでも言葉は止まらなかった。
「それに、私、決めてたの。まだ何になるかは決めてないけど。いつかちゃんと働いて、今度は私が、お母さんたちを支えるんだって。十五年守ってもらったぶん、これから恩返しするんだって。……そんなの、あなたから見たらくだらないかもしれないけど。ぜんぶ些細なことかもしれないけど。でも、それが私の全部なの。私の未来は、ぜんぶ、あっちにあるの」
皇太子は、黙って聞いていた。
「殿下は……あなたは、どうなんですか。もしあなたが、いきなり私の世界に呼ばれて、もう二度と帰れません、代わりにこっちの世界を救ってくださいって言われて――はい分かりましたって、頷けるんですか」
沈黙があった。
長い、沈黙だった。
「……頷きは、しない」
やがて、皇太子は静かに言った。
「おそらく俺も、お前と同じように喚くだろう。ふざけるな、帰せ、と」
思いがけない答えに、華恋が顔を上げると、冬の湖の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
「だが――帰る道が本当にないと知ったなら、俺はその世界で、生きる道を探す。他に、道がないからだ」
それは慰めではなかった。ただ事実をそこに置くだけの、冷たくて、正直な言い方だった。
「戻れないという事実は、変わらない。代わりに、この離宮での生活には何ひとつ不自由をさせないと約束する。衣食も、警護も、望むものを言え」
「……いらない」
華恋は首を振った。涙が、ぼろりと落ちた。
「そんなの、いらない。帰りたい。おうちに――帰りたいだけなの……」
皇太子は何かを言いかけて、やめた。
代わりに、深く息を吐いた。重たい、長いため息だった。
「……今は、休め」
それだけ言って、彼は部屋を出て行った。
◇
部屋を出た廊下で、皇太子は薬草の盆を持って戻ってきた侍女を呼び止めた。
「エマ、といったな」
「は、はい」
「あの少女は、この国の要になる。だが、心を閉ざしたままでは、聖なる力は灯らないそうだ」
「……はい」
「お前は、そばにいろ。侍女としてではなく――そばにいる、ひとりの人間として。あの子の心を、開いてほしい」
エマは、一拍だけ間を置いて――それから、深く頭を下げた。
「……かしこまりました。仰せのままに」
その一拍が何だったのかを、皇太子は気に留めなかった。
◇
執務室の窓が夕暮れの色に染まりはじめても、皇太子の筆は、何度も止まった。
机の上には、決裁を待つ書類の山。結界の維持費。瘴気に呑まれた村の報告。聖女召喚に費やした国庫の、償還計画。
維持費は、魔石の値上がりで来期さらに膨らむ。村の報告は、この一月だけで三件。国庫の穴埋めを渋る貴族は、日ごとに増えていく。
どの書類の下にも、同じ一行が透けて見えた。
――時間が、ない。
ノックの音がして、年配の補佐官が入ってきた。
「殿下。本日の報告を」
「聞こう」
「聖女様の件、宮廷内で噂が広がりはじめております。……水晶が沈黙した、と。神殿への寄進を見合わせる家も、出はじめました」
「……早いな」
「壁に耳あり、でございます」
「……そうか。ご苦労だった。今日はもう下がっていい」
補佐官が一礼して退がると、執務室は急に静かになった。
皇太子は筆を置き、窓の外に目をやった。
暮れていく庭園。その先の離宮の一角に、ひとつだけ、小さな灯りがともっている。
祈りは、魂の底から誰かを救いたいと願う心からしか、生まれない――召喚の夜、教皇はそう言っていた。
会ったこともない民のためには祈れない、と少女は言った。あのときは呆れた。だが、裏を返せば――会って、知って、想う相手のためなら、ということでもある。
ならば。
「……愛させれば、いい」
呟きは、誰もいない部屋に落ちた。




