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いつもの朝

「華恋! 起きてるの! 遅刻するよ!」


階段の下から、母の声がした。


華恋は、ぱちりと目を開けた。


見慣れた天井。カーテンの隙間から差し込む、細い朝の光。枕元には、充電ケーブルに繋がったままのスマホ。


自分の、部屋だった。


「……っ」


跳ね起きる。ベッドから転げ落ちるみたいに降りて、カーテンを開けた。


いつもの住宅街。電柱、隣の家の白い車、遠くに聞こえる踏切の音。


パジャマの袖をめくって、腕をつねる。ちゃんと、痛い。


「覚めた……覚めたんだ……!」


夢だと、言い張ってきた。言い張りながら、ほんとうはずっと怖かった。もし覚めなかったらって、考えないようにするだけで精いっぱいだった。


でも、覚めた。ちゃんと、朝が来た。


華恋は階段を駆け下りた。廊下の突き当たり、リビングの扉を開けると、味噌汁の匂いがした。


「もう、何回呼ばせるの。……って、どうしたの、その顔」


エプロン姿の母が、お玉を持ったまま振り向く。テーブルでは父が新聞を畳んでいて、制服姿の姉がトーストをかじっている。


いつもの、朝だった。


どこにも欠けたところのない、いつもの朝だった。


「……私」


声が、勝手に湿った。


「私、すっごく変な夢、見てた」


「夢?」


「石でできた教会みたいなところに呼ばれて。おじいさんがいっぱいいて、銀髪のすっごい意地悪な王子様がいて。私、聖女なんだって。なのに水晶が光らなくて、おまえは要らないって言われて……」


「なにそれ」


姉が吹き出した。


「漫画の読みすぎでしょ」


「ほんとにリアルだったんだって! 床とか冷たくて、ちゃんと寒かったし!」


「はいはい。ほら座って。冷めるよ」


母が茶碗を置いてくれる。味噌汁の湯気が、ゆらゆらと立ちのぼる。豆腐と、わかめ。いつもの。


華恋は席について、両手を合わせた。


「いただきます」


テレビが天気予報を流している。父が「今日も暑くなるなあ」と言い、姉が「日焼け止め貸して」と返す。意味のない、宝物みたいな音たち。


「あ、そうだ。今日ね、学校終わったら友達とカフェ行ってくる。駅前に新しくできたとこ。桃のパフェが有名なんだって」


「あんた、この前もパフェ食べてなかった?」


「いいの。パフェは別腹なの」


姉と言い合いながら、華恋は椀を持ち上げて、味噌汁をすすった。


……。


味が、しなかった。


「……あれ」


もう一口、すすってみる。やっぱり、しない。湯気のあたたかさだけが唇に触れて、味だけが、すっぽりと抜け落ちている。


「お母さん、この味噌汁……」


顔を上げた。


逆光で、母の顔が見えなかった。


さっきまで、ちゃんと見えていたはずなのに。エプロンの赤だけがそこにあって、その上が、白い。


「……お母さん?」


テレビの音が、遠ざかる。父の声が、姉の笑い声が、輪郭だけ残して、意味にならなくなっていく。窓から入る朝の光が、どんどん白く、強くなって――


「――待って」


華恋は手を伸ばした。


「待って、やだ、まだ――お母さん! お姉ちゃ――」


   ◇


白い天蓋が、視界いっぱいに広がっていた。


伸ばした右手が、天蓋に向かって、宙に浮いたまま止まっている。


「……ぁ」


夢だったのは、あっちだった。


わかった瞬間――昨日からずっと、「夢だから」の一言で必死に支えてきた胸のつっかえ棒が、折れた。


息を、吸った。


吸えなかった。


喉の奥で、ひゅ、と細い音が鳴っただけだった。おかしい。吸っているのに、入ってこない。もっと吸わなきゃ。ひゅ、ひゅ、と音ばかりが速くなって、胸は空っぽのままで。


(いき、が)


指先が痺れはじめる。視界の端が白くちかちかと瞬いて、心臓の音だけが耳の奥でうるさい。


怖い。息ができない。死んじゃう。怖い。誰か。


ノックの音が、四回、鳴った。


「失礼いたします、聖女様。朝食を――」


扉が開く音。それから、盆が落ちる音がした。


「聖女様!?」


駆け寄ってくる足音。


「息が……っ、聖女様、私を見て!」


肩を掴まれた。栗色の髪と必死な茶色の目が、狭くなった視界の真ん中に来る。ゆうべの、侍女の人だ――頭の隅でそう思ったきり、考える余裕なんて、なかった。


「大丈夫。大丈夫です、これで死ぬことはありません! ゆっくり――そう、吐いて。吸うより先に、吐くんです。ふーっ、て。私と一緒に。ふー……」


あたたかい手が、背中を、ゆっくり、ゆっくりと撫でる。


ふう、と吐く。ひゅ、と吸う。ふう。ひゅ。ふう……。


どれくらいそうしていたのか。気づけば胸に空気が通るようになっていて、全身にびっしょりと汗をかいていた。


「……もう大丈夫ですよ。すぐお医者様をお呼びしますから、そのまま横になっていてくださいね」


   ◇


医者は、思いがけず若い男だった。


簡素な白い上衣に、使い込まれた薬箱をひとつ。年は二十代の半ばくらいだろうか。「失礼しますね」と柔らかく断ってから、脈をとり、目を覗き込み、いくつか短い質問をした。


「うん――心臓にも肺にも、悪いところはありません。心が、限界を超えてしまったんでしょう。……お辛かったですね」


最後のひとことは、エマにではなく、華恋に向けられていた。


この世界に来てはじめて掛けられたその種類の言葉に、どう応えればいいのか分からなくて、華恋は目を逸らした。


「気鎮めの薬草を煎じて、朝と晩に。お食事は、消化の良いものをすこしずつで結構ですよ」


薬箱を閉じて、医者は立ち上がった。それから扉のほうへ向き直り――深く、頭を下げた。


「では、私はこれで。……失礼いたします、殿下」


でんか。


華恋は、のろのろと顔を向けた。


部屋の入り口に、銀髪の青年が立っていた。


いつからそこにいたのか。黒い正装のまま腕を組み、冬の湖の瞳で、じっとこちらを見ていた。


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