不必要な存在
素足の裏に、大理石の冷たさが染みてくる。
祭壇までの十数歩を歩きながら、華恋は気づいてしまった。
(……これ、ちょっと、すごくない?)
だって、聖堂。ろうそく。祭服の老人たち。銀髪の皇太子。そして、選ばれし聖女――つまり、私。
設定の凝った夢だと思えば思うほど、これは完全に、あれだ。ゲームのオープニングだ。プレイヤーは私。主役も私。
(手をかざしたら水晶が光って、会場がどよめいて、「おお……!」ってなるやつだ。知ってる。なんなら光の柱とか出ちゃう可能性もある)
さっきまで縮こまっていた背筋が、我ながら現金なことに、すこし伸びた。
いいだろう。夢なら夢で、聖女デビューでもなんでもしてやろうじゃないか。どうせ覚めるのだし、大活躍するだけしてから覚めても損はない。
水晶球は、近くで見ると思ったより大きかった。無色透明の球体の奥で、ろうそくの炎がいくつも歪んで揺れている。
背後で、大勢が息を呑む気配がした。
(見てなさいよ……)
華恋は右手を持ち上げ、たっぷりと勿体をつけて、水晶にかざした。
……。
……。
何も、起こらない。
(…………え)
水晶は沈黙している。ろうそくの炎を映すだけの、ただの綺麗な石ころとして。
(えーーー!? なんで!?)
手首の角度を変えてみる。距離を詰めてみる。最後には、ぺたっと触ってもみた。
石は、石だった。
(嘘でしょ、ここ光るところでしょ!? 私の夢なんだけど!? 主役にすこしは忖度して!?)
そして、沈黙が長引くほど、背後の空気が音もなく冷えていくのがわかった。
「……光らぬ」
「馬鹿な。魂の色は確かに――」
「失敗なのか。三年かけた儀式が」
「国庫はどうなる。殿下に何と――」
ざわめきは囁き声のくせに、聖堂の高い天井に反響して、全部聞こえた。
しっぱい。
その単語が、胸のどこかに小さな棘みたいに刺さる。夢なのに、変なの、と華恋は思った。夢なのに、頬のあたりがじりじりと熱い。
ついでに、ほんの一分前まで光の柱がどうとか考えていた自分を、今すぐ記憶から消したかった。
「――どうなっている」
低い声が、ざわめきを一瞬で黙らせた。
皇太子が教皇を見据えている。声は静かなままだった。静かなまま、刃物だった。
「教皇。貴様は言ったはずだ。神託の娘は必ず聖女の力を宿している、と」
「この老いた目は、人の魂の色を映しまする。長く生き、数えきれぬ魂を見て参りましたが……この方の色は、唯一無二。まごうことなき聖女の魂。それは今この瞬間も、寸分も揺らいではおりませぬ」
「では、なぜ水晶は沈黙している」
「……聖なる力は、祈りによってのみ形になりまする。『誰かを救いたい』という、魂の底からの祈りによって。恐れながら――」
教皇は、そこではじめて言葉を選ぶように間を置いた。
「この方の内には、いまだその祈りが、灯っておられませぬ」
祈りが、灯っていない。
その意味を華恋が呑み込むより早く、神官たちの視線が答えを出した。人を救いたいという心のない聖女。中身の入っていない、器だけの――
皇太子が、はじめてまっすぐに華恋を見た。
「聞いたとおりだ。この国の民を思え。結界の外で、今日も瘴気に呑まれて死んでいく民を思って――もう一度、触れてみろ」
命令だった。お願いではなく、確認ですらなく。
華恋は水晶を見て、それから皇太子を見た。
夢だと思っているから、言えたのだと思う。現実だったら、きっと怖くて頷いていた。
「……無理だよ、そんなの」
「……なんだと」
「だって、会ったこともない人だもん。顔も知らない、名前も知らない、話したこともない。そんな人たちのために心の底からお祈りしろって言われて、できるわけないじゃん」
「できるかできないかの話ではない」
遮る声は、温度を一段下げていた。
「やるのだ。そのためにお前は喚ばれた」
「喚ばれたって……私、頼んでない」
言った瞬間、皇太子の目から、最後の温度が消えた。
長い沈黙があった。
彼は片手で額を押さえ、何かをこらえるように目を閉じ――それから、静かに言った。
「他者を救う意志もなく、その力も示せぬのであれば」
冬の湖の瞳が、真上から華恋を射抜く。
「お前はこの国にとって、何一つ価値のない――不必要な存在だ」
ふひつよう。
音が意味になるまでに、すこしかかった。
夢だ。夢のはずだ。なのにその言葉は、氷水みたいに胸の内側を流れ落ちて、行き止まりの場所で、冷たいまま溜まった。
生まれてから十五年、華恋は誰かにそんなことを言われたことが、一度もなかった。
「――殿下」
教皇の声が、張り詰めた空気に割って入る。
「召喚は成りましてございます。魂の色は本物。祈りは、あとから灯ることもございましょう。……いましばらく、様子を見られませ」
皇太子はしばらく答えなかった。
やがて、興味を失ったように踵を返す。
「離宮に部屋を用意しろ。侍女をつけて――丁重に、扱え」
丁重に、のところにどんな意味が込められていたのか、華恋にはわからなかった。マントの裾が翻り、靴音が遠ざかっていく。
その背中が扉の向こうへ消えるまで、聖堂の誰ひとり、頭を上げなかった。
◇
離宮の部屋は、腹が立つくらい豪華だった。
天蓋つきのベッド。見たこともない細工の家具。磨き上げられた窓の向こうには、月明かりに沈む庭園。
ホテルみたい、と思って、それから、ホテルのほうがずっとましだと思い直した。ホテルには、帰る家があるときに泊まるものだ。
部屋まで案内してくれたのは、栗色の髪をきっちりとまとめた、若い侍女だった。
「本日より、聖女様の専属侍女を仰せつかりました。エマと申します。どうぞ、なんなりとお申し付けくださいませ」
侍女は深々と頭を下げ、顔を上げて、微笑んだ。作り物ではない、目元まで動く笑い方だった。
(……せんぞくじじょ。ほんと、設定が細かい夢)
華恋がぼんやりしているあいだに、エマは手際よく寝支度を整えて、「何かございましたら、いつでもお呼びくださいね」と言い残し、静かに下がっていった。
部屋は、急に静かになった。
華恋はパジャマのままベッドにもぐり込み、慣れない匂いのする布団を頭までかぶった。
大丈夫。これは夢。長くて、意地悪で、設定のやたらと凝った夢。
寝れば覚める。寝て起きたら、自分の部屋の天井があって、母の「早く起きなさい」が聞こえて、髪を乾かさずに寝たことを怒られて、それから友達とカフェに行って、桃のパフェを食べる。
(……早く、覚めて)
目を閉じる。
まぶたの裏で、冬の湖の色をした瞳が、いつまでも消えなかった。




