召喚
湯上がりの髪も乾かさないまま、響華恋はリビングのソファに沈み込んだ。
冷房の効いた部屋に、切ったばかりの桃の匂いが満ちている。
「華恋、髪。濡れたままだと傷むよ」
母はそう言いながら、ガラスの器をローテーブルに置いた。白い果肉が照明を受けて、うっすらと光って見える。
「あとで乾かすー」
「あとでって言って、いつも寝るじゃない」
言い返す代わりに、いちばん大きなひと切れにフォークを刺した。よく冷えた果肉が歯を押し返し、それから甘い水になってほどけていく。夏の終わりの桃は、今年いちばんの当たりだった。
階段を下りてくる足音がして、姉が顔を出した。
「あ、桃。私の分は?」
「早い者勝ち」
「うわ、最悪。受験生を労わろうっていう気持ちはないわけ?」
口ではそう言いながら、姉は器を覗き込み、残ったふた切れのうち大きいほうを華恋の皿へ移した。
いつものことだった。文句を言いながら、最後にはかならず譲ってくれる。
「……いいの?」
「いいよ。華恋、桃好きじゃん」
華恋はそれを、当たり前のように受け取った。
守られること。譲られること。愛されること。それが当たり前なのだと、十五年間、疑ったこともない。
その夜、ベッドに入ったのは日付が変わる少し前。
明日は友達と、駅前に新しくできたカフェに行く。頼むものはもう決めてある。桃のパフェと、写真を撮るための真っ白なラテ。
スマホを枕元に置いて、目を閉じる。
ふかふかの布団は、いつもどおり身体のかたちに沈んでくれた。
――光を見たのは、そのときだ。
まぶたの裏側が、真昼のように白く灼けた。
◇
冷たい。
最初に戻ってきた感覚は、それだった。
頬に触れているのは、磨かれた石の感触。
目を開けると、見知らぬ天井があった。灰色の石を高く高く積み上げた、聖堂のような天井。ろうそくの光が揺れて、石の継ぎ目に影の川を作っている。
線香に似た、けれどもっと重たい香の匂い。低くこもった、大勢の人間の息遣い。
華恋は大理石の床の上に、パジャマのまま横たわっていた。
「――お目覚めになられたぞ」
誰かの声を合図に、周囲のざわめきがいっせいに膨らんだ。
身体を起こす。視界に飛び込んできたのは、白い祭服をまとった老人たちの群れだった。十人、いや、もっといる。全員が、すがるような、値踏みするような、奇妙に熱を帯びた目でこちらを見下ろしている。
心臓が、遅れて跳ねた。
(……なに、これ)
声を出そうとして、喉が鳴っただけだった。ここはどこ。この人たちは誰。なんで私、床に――
パニックは、思考より先に身体に来た。指先が冷たくなり、呼吸が浅く速くなる。後ずさろうとした手のひらが大理石に触れて、その冷たさがあまりにも鮮明で。
(夢だ)
華恋は、そこに逃げ込んだ。
(そうだよ、夢。だってさっきまでベッドにいたもん。こういうの、聞いたことある。明晰夢っていうやつ。リアルな夢。痛みも感じるらしいし)
頬をつねってみる。痛い。でも、痛い夢だってあるはずだ。あるに決まっている。
そうでなければ、おかしいのだ。だって、これが現実だとしたら――現実だとしたら、私は。
その先を考えることを、華恋の心は拒否した。
「恐れながら、聖女様」
老人たちの輪の中から、ひときわ年老いたひとりが進み出た。真っ白な祭服に、金糸の刺繍。曲がった腰と、長い髭。深い皺の奥の目だけが、若い人間のように澄んでいる。
「ようこそおいでくださいました。ここは、あなたさまのおられた世界とは異なる世界。そしてあなたさまは、『聖女』としてこの地に召喚されたのでございます」
「……しょうかん」
「はい。神託に従い、我らが三年の歳月をかけて紡いだ儀式にございます。あなたさまの魂の色は、まごうことなき聖女のもの。結界の外に広がる瘴気と魔物より、この世界をお救いくださる、ただおひとりのお方――」
言葉は、半分も頭に入ってこなかった。せいじょ。しんたく。しょうき。テストに出ない単語ばかりだ。
ただ、ひとつだけわかったことがある。
この夢は、設定がやたらと凝っている。
「……はあ」
夢だと決めてしまえば、少しだけ呼吸が楽になった。
そのとき。
「――茶番はいい」
低い声が、聖堂の空気を斬った。
老人たちの輪が割れて、ひとりの青年が歩み出てくる。
銀色の髪だった。ろうそくの炎を受けてなお冷たく光る、降ったばかりの雪のような銀。年は二十歳くらいだろうか。黒を基調にした軍服めいた正装に、重たげなマントを羽織っている。
顔立ちは、認めたくないくらいに整っていた。けれどその目は、綺麗というより、怖かった。冬の湖の色をした瞳が、感情の読めない光をたたえて、まっすぐに華恋を射抜いている。
「皇太子殿下……」
老人たちが、いっせいに頭を垂れた。
こうたいし。その響きだけで、この夢の中での彼の位置がわかってしまう。
皇太子と呼ばれた青年は、華恋の前で足を止めると、しばらく無言でこちらを見下ろした。頭のてっぺんから、パジャマの裾から覗く素足の先まで。品定めというにはあまりに温度のない、在庫を確認するような視線だった。
「これが、三年と国庫を費やした成果か」
呟きは華恋にではなく、傍らの老人へ向けられていた。
「教皇。力の確認を」
「……御意」
教皇と呼ばれた老人は静かに頷くと、華恋に向き直り、聖堂の奥を手で示した。
祭壇の上に、それはあった。
人の頭ほどもある、無色の水晶球。支える銀の台座が、ろうそくの光を鈍く照り返している。
「聖女様。どうか、あの水晶に手をかざしてくださいませ。あなたさまの内なる聖なるお力が、必ずや応えてくれましょう」
水晶に、手をかざす。
それくらい、別にいい。どうせ夢なのだ。夢なら、覚めるまで付き合ってやればいい。付き合って、朝が来たら、桃のパフェを食べに行くのだ。
華恋は立ち上がり、冷たい大理石の上を素足のまま歩き出した。
背中に刺さる冬の湖の視線には、気づかないふりをして。




