三日前
エマは、離宮の一室に運ばれた。
華恋も自分の部屋で休むように言われたが、断って、寝台のそばの椅子に座り込んだ。手を握ったまま、朝が来るまで一睡もしなかった。
エマは眠り続けていた。顔色は健康そのもので、呼吸も規則正しい。
夜が明けるころには、身体の重さもいくらか抜けていた。
◇
明け方から、離宮の空気が変わっていた。
廊下を歩くと、侍女たちが立ち止まって深々と頭を下げる。昨日までの「関わらないほうがいい」という目ではなく、今度は畏れの目だった。
「聖女様が、毒を消されたと」
「光が壁を抜けて、離れの者の傷まで治ったそうよ」
「本物の……本物の聖女様だったのね」
ささやきは、どこへ行ってもついてきた。
一晩で、噂は完全に裏返っていた。
だが、誰の口からも、エマの名前は出てこなかった。
奇跡の話ばかりだった。光の話、聖力の話、これで結界が、これで国が。誰ひとり、毒を飲んで倒れた侍女がどうなったのかを、話題にしていない。
(……気持ち悪い)
華恋は足を止めて、壁に手をついた。
エマが死にかけたのだ。あの人は、あんなに苦しんで、いまも目を覚まさない。
なのにみんな、私が光ったことばかり喜んでいる。
(……そもそも、なんで毒なんて入ってたの)
考えて、いちばん最初に浮かんだ顔があった。
◇
リネン室の扉は、いつものように開け放たれていた。
鉄灰色の髪の侍女長は、いつもと同じ紺の制服で、いつもと同じように帳簿を検分していた。昨夜のことなど何もなかったみたいに。
「あなたですか」
華恋は、前置きも挨拶もなしに言った。
カトリーヌは顔を上げた。
「……何のお話でしょう」
「エマに毒を盛ったの、あなたですかって聞いてます」
若い侍女が息を呑んで、そそくさと部屋を出ていった。
カトリーヌはペンを置き、帳簿を閉じた。
「……理由をお伺いしても?」
「毒見です。あれは、私の食事の毒見でした。つまり狙われたのは私で――この離宮で、私にいなくなってほしい人がいるとしたら、あなたじゃないですか」
言いながら、声が震えた。怖い、のではない。腹が立って震えていた。
「私のことは、いくらでも馬鹿にすればいい。居候でも、偽者でも、なんとでも言えばいい。でも、エマは関係ないでしょう。あの人はただ、仕事をしていただけで、それで死にかけて――」
「聖女様」
遮る声は、静かだった。
「私では、ございません」
「じゃあ誰が」
カトリーヌは答えず、これ見よがしに、長いため息をついた。
「……私があなたを疎ましく思っているのは、事実です。否定はいたしません」
「私が毒を用いるなら、こんな下手は打ちません。皇太子殿下の御前で、殿下ご自身が同席なさる晩餐の席で、殿下が召し上がるはずだった皿に。……私は、離宮の全責任を負う立場です。それが何を意味するか、お分かりですか」
「……犯人は、真っ先にあなたが疑われる」
「そのとおり。実際、あなたはここへ来た」
華恋は言葉に詰まった。
「私は皇后陛下にお仕えする身です。陛下は、召喚そのものに反対しておられました。……分かりますか。私どもにとって、あなたは『いてはならない存在』ではない。役に立たない存在のまま、そこにいてくれるのが最善だったのです」
「…………」
「なぜ、わざわざ殺すのです。放っておけば、勝手に価値が下がっていくものを」
背筋が、冷たくなった。
「……ついでに、ひとつだけ申し上げておきます」
カトリーヌは、閉じた帳簿の表紙を、指先でとん、と叩いた。
「この離宮に持ち込まれる物は、すべて私が管理しております。誰が、いつ、何を取り寄せたか。ひとつ残らず、ここに」
「……それが、なんですか」
「事件の三日前。解毒剤が、一瓶。この離宮に納められました。……銀環の解毒剤です。金貨で十枚は下らない、めったに市場へ出ない品」
「……解毒剤?」
「ええ。毒が使われる、三日も前に」
「毒がどんなものかも分からぬうちに、その毒に効く薬だけが先に届く偶然が、この世にあるとお思いですか」
言葉が、出なかった。
「注文書に署名があります。殿下の補佐官のものです。……もっとも、あの方が独断でそのような手配をなさるはずもございませんが」
「……もう、いいです」
「聖女様。おかしいとは思いませんでしたか。あれほど長く聖女様を避けておられた殿下が、なぜあの晩に限って、夕食にお招きになったのでしょう」
視界が、ぐらりと揺れた。
「あなたの目の前で、あなたの大切な人が、死にかけて。あなたの力が目覚めた。……そして今朝、宮廷中が聖女様の奇跡の話で持ちきりです。渋っていた家々が、こぞって寄進を申し出ているそうですよ」
「……嘘」
「あら。私はひとつも、嘘は申しておりません」
カトリーヌは、ふん、と鼻を鳴らした。
「帳簿にあることを申し上げただけ。そこから何をお考えになるかは、聖女様のご勝手です」
念を押すような言い方だった。
嘘だ。
そんなの、嘘に決まってる。だってあの人は、昨日の夜、あんなふうに笑って――
◇
部屋に戻ると、寝台の上で、エマが目を開けていた。
「エマ!」
華恋は駆け寄った。全部が吹き飛んだ。頭の中の疑いも、侍女長の言葉も、なにもかも。
「よかった……よかった、ほんとに……!」
「聖女様……」
エマはぼんやりと瞬きをして、それから、はっとしたように身体を起こした。
「私……あの、毒を……」
「もう平気! 毒はぜんぶ消えたって。ね、先生」
寝台のかたわらでは、あの若い医者が診察を終えたところだった。
「ええ。どこにも異常はありません。今日一日は、念のため安静に」
医者は微笑んで、脈をとっていた手を離し、薬箱を閉じようとした。
その口が開いた拍子に、中身が見えた。
包帯。小瓶がいくつか。ちいさな匙。
そのあいだに埋もれるように、ひとつだけ――封蝋のついた、深い青のガラス瓶があった。銀色の細い環が、二重に彫られている。
華恋の身体が、勝手に動いた。
「……それ、なんですか」
「え」
「その、青い瓶」
医者の手が、止まった。
「……解毒剤です」
「なんの」
「――銀環の」
部屋の空気が、変わった。
「なんで持ってるんですか」
「……」
「先生。なんで、その薬、持ってるんですか」
医者はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと薬箱の蓋を閉じて、目を伏せた。
「……三日前に、渡されたのです」
「誰から」
「殿下の補佐官殿から」
心臓が、嫌な音を立てた。
「なんて言われて」
「……『どこかで使うことになるかもしれない。持っておくように』と。それだけです」
医者の声が、すこし掠れた。
「妙な話だとは、思いました。……銀環の解毒剤など、一生使わずに終える医者のほうが多い」
華恋は、立ち上がった。
その拍子に、寝台の上のエマと目が合った。
エマは、何も言わなかった。ただ、シーツを握った手が、白くなっていた。
「……カレン様!」
呼び止める声を背に、扉を蹴り開けるようにして、廊下へ飛び出す。
行き先は、決まっていた。




