第5話 極寒の保健室と、孤独な銀色の噂
抜けるような青空から降り注ぐ陽光が、アルカディア魔法学園の旧校舎裏にある小さな運動場を照らしている。午前の2時限目。アレン・スミスは、第7特別クラスの生徒たちに基礎的な体力作りの課題を与え、グラウンドの外周を走らせていた。
魔法を行使する上で、魔力回路を支える肉体の強靭さは必須となる。どれほど膨大な魔力を持っていようとも、それを振るう肉体が貧弱であれば、器はすぐに悲鳴を上げ、魔法の精度は著しく落ちる。アレンが暗殺者としての過酷な訓練の中で身をもって学んだ真理の1つだった。
反抗的な態度をとっていた生徒たちも、初日のアレンの見せた底知れない隙のなさを警戒してか、あるいは単にサボる口実を思いつかないのか、渋々ながらも列を作って外周を走っている。
「ほら、もう少しで終わりですよ! 頑張って!」
副担任のミアが小走りで生徒たちの横につき、明るい声で応援している。アレンは木陰に立ち、出席簿にチェックを入れながらその様子を静かに眺めていた。
その時、集団の最後尾を走っていた男子生徒の足がもつれた。初日の朝礼で、ミアに向かって丸めた紙くずを投げたあの生徒だ。
彼は体勢を崩して派手に土の地面に転がり、うめき声を上げて自らの膝を押さえた。
アレンがゆっくりと歩み寄るより先に、ミアが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!? 痛いところは……あっ、膝がすりむけて血が出ています」
「……っち、石につまずいただけだ。大したことねえよ」
強がる男子生徒の膝からは、土にまみれた擦り傷からじわじわと赤い血が滲み出していた。骨や靭帯に異常はなさそうだが、放置すれば化膿する恐れがある。
アレンは彼を見下ろし、温厚で穏やかな声で告げた。
「土が入っていますね。水洗いだけでは不十分です。保健室へ行って、消毒と手当てをしてきなさい」
アレンの言葉を聞いた瞬間、男子生徒の顔に明らかな動揺が走った。膝の痛みよりも強い、明確な拒絶反応だった。
「ほ、保健室!? いや、冗談じゃねえ! あんなところに行くくらいなら、このまま唾でもつけとく方がマシだ!」
「ですが、感染症にかかったら大変です。私が付き添いますから」
ミアが宥めようとするが、生徒は首を横に激しく振って後ずさりした。周囲を走っていた他の生徒たちも足を止め、保健室という単語を聞いてヒソヒソと囁き合っている。
「先生たち、新任だから知らないんだろ……。うちの学園の保健室は、生きた人間が近づいていい場所じゃないんだよ」
「えっ?」
ミアが目を丸くして首を傾げる。アレンは生徒の怯えた視線と声の震えから、それがただの生徒間の怪談や噂話の類ではないことを察した。
男子生徒は傷ついた膝をさすりながら、忌々しそうに吐き捨てる。
「あそこにいる保健医の『リズ・アーデルハイト』って女は、歩く吹雪だ。保健室の周りだけ季節が真冬みたいに凍りついてて、中に入ったら数分で凍傷になる。治療なんて名目だけで、薬を投げてよこされてすぐに追い出されるんだよ」
他の生徒たちも、彼の言葉に同調するように深く頷いている。
学園の保健室が機能しておらず、生徒が怪我の治療すら拒む状況は、教育環境として決して健全ではない。
アレンは出席簿を閉じ、微笑みを浮かべたまま生徒に向き直った。
「わかりました。それなら、傷口は水道の水でよく洗い流しておきなさい。私が保健室に行って、必要な薬と包帯をもらってきましょう」
「アレン先生? でも……」
「大丈夫ですよ、ミア先生。新任の挨拶もまだでしたから、ちょうどいい機会です。あとの授業をお願いできますか」
「は、はい。わかりました」
アレンはミアにグラウンドを任せ、旧校舎の裏口から建物の中へと足を踏み入れた。
学園の保健室は、旧校舎の1階の最も奥、日当たりの悪い北側の突き当たりに位置している。
廊下を進むにつれて、周囲の空気が少しずつ冷たくなっていくのを感じた。初めは古い石造りの建物特有の冷え込みかと思ったが、目的地に近づくにつれて、その冷気は明らかに異常なレベルへと達していった。
保健室の扉まで残り10メートルの距離に達した時、アレンの吐く息が真っ白に染まった。
窓枠にはうっすらと霜が降り、床の木材は異常な冷気でわずかに収縮し、一歩踏み出すたびにミシミシと軋むような音を立てている。生徒が怯えるのも無理はない。常人であれば、この廊下に数分立っているだけで急激に体温を奪われ、激しい震えに襲われるだろう。
アレンは体内の魔力を微細に循環させ、皮膚の表面に極薄の断熱層を形成した。外の冷気を完全に遮断し、自身の体温の流出を防ぐ高度な魔力操作だ。
呼吸のペースを乱すことなく、アレンは霜の降りた保健室の扉の前に立ち、ノックを2回した。
「……誰」
扉の向こうから、鈴の転がるような、それでいてひどく冷たく硬い声が響いた。
「失礼します。新任の教師、アレン・スミスです。生徒の怪我用の薬をいただきに参りました」
返事を待たずに、アレンは冷え切った真鍮のドアノブを回して扉を開けた。
室内は、まさに白銀の隔離病棟だった。
外の光を遮るように厚いカーテンが引かれ、部屋の隅にある薬品棚やベッドの金属フレームは、びっしりと白い霜で覆われている。室温は確実に氷点下を大きく下回っていた。
そして、部屋の中央にある事務デスクの前に、彼女はいた。
リズ・アーデルハイト。
透き通るような白い肌と、肩で切りそろえられた神秘的な銀色の髪。
圧倒的に高貴で、近寄りがたいほどの美貌だった。しかし、その瞳の奥には小動物のように周囲を警戒する怯えの色が潜んでいる。
彼女は小柄で華奢な体を、極寒の部屋の中にありながらさらに分厚い白いオーバーコートで幾重にも包み込み、デスクの椅子の上で膝を抱えるようにして小さく丸まっていた。
「……用件は聞いた。そこから入るな」
リズはアレンに視線を向けず、デスクの引き出しから小さな軟膏の瓶と包帯の束を取り出すと、机の上を滑らせるようにしてこちらへ投げた。
アレンは飛んできた薬と包帯を片手で難なく受け止める。
「ありがとうございます。アーデルハイト先生ですね」
アレンが温厚な声をかけて1歩室内に踏み込むと、リズの肩がびくっと跳ねた。
「来るな。……凍るぞ」
拒絶の声とともに、彼女の身体からさらに強烈な冷気が波紋のように広がった。
アレンの足元の床がパリパリと音を立てて凍りつき、周囲の空気が一気に鋭い刃となって肌を刺す。
だが、アレンは表情を変えなかった。彼の目には、彼女の周囲で起きている現象の正体が明確に視えていた。
魔力の暴走だ。
彼女の体内には、常人を遥かに超える莫大な冷気の魔力――精霊王クラスの極寒の力――が内包されている。しかし、本人の制御能力がそれに全く追いついていない。
彼女が意図して冷気を放っているのではない。彼女自身もまた、己の体内からとめどなく溢れ出る冷気に耐えきれず、分厚いコートを着込んで必死に震えを堪えているのだ。
周囲の人間を凍らせないために、あえて冷たい言葉で拒絶し、この北側の部屋に自分自身を隔離している。
アレンは受け取った薬と包帯をポケットにしまい、柔和な笑みを浮かべたまま告げた。
「ご忠告痛み入ります。ですが、私は少しばかり寒さに強くてですね。この程度の気温なら、快適な方ですよ」
「……強がり。すぐに唇が紫になって、泣きながら逃げていく」
リズは膝に顔を埋めたまま、ボソボソと呟く。これまでに何度も、彼女に近づこうとした人間がその冷気に耐えきれず、恐怖や嫌悪の顔を浮かべて去っていくのを見てきたのだろう。
「強がりではありませんよ。実際、この学園は少し暖かすぎたくらいですから」
アレンは魔力による断熱層を維持したまま、もう1歩だけ彼女に近づき、デスクの端にそっと手を触れた。
霜が降りていたデスクの表面が、アレンの指先が触れた部分だけ、ほんのわずかに溶けて水滴に変わる。
その光景を横目で見たリズの銀色の瞳が、微かに大きく見開かれた。
アレンが震えもせず、顔色1つ変えずに自分のそばに立っている。それが彼女にとってどれほど異常な光景なのか、彼女自身の反応が雄弁に物語っていた。
「生徒の薬、確かに受け取りました。また後ほど、使用した分の報告に参りますね」
アレンは静かに頭を下げ、それ以上は踏み込まずに踵を返した。
今日は新任の挨拶と、状況の把握ができれば十分だ。
リズの戸惑うような視線を背中で受けながら、アレンは保健室の扉を閉めた。
廊下に出ると、魔法の断熱層の外側で凍りついていた空気がゆっくりと溶け、元の古い木造校舎の匂いが戻ってくる。
アレンはポケットの軟膏を指で弾いた。
生徒がいつでも安心して治療を受けられる健全な保健室は、平和な学園生活に不可欠な施設である。彼女の抱えるあの強大な冷気も、繊細な魔力の誘導と相殺の技術があれば中和することは可能だろう。
アレンは最適な魔力干渉の手順を頭の中で組み立てながら、グラウンドで待つ生徒たちのもとへ足早に戻っていった。




