第6話 相殺される冷気と、温かな銀色の涙
午前の授業の終了を告げる鐘が、アルカディア魔法学園の敷地内に鳴り響いた。
第7特別クラスの生徒たちが思い思いの場所に散って昼食を取り始めるのを見届け、アレン・スミスは教卓の上に散らばった小テストの束を揃えた。出席簿にペンで印を書き込んでいると、教室の前方の扉から副担任のミアが顔を出した。
「アレン先生、お疲れ様です。これからお昼ですか?」
手提げの弁当箱を持ったミアが、明るい声で尋ねてくる。アレンは揃えたプリントを鞄にしまいながら、軽く首を横に振った。
「ええ。ですがその前に、少し保健室の様子を見てきます。午前中に怪我をした生徒がいましたから、今後のために設備の確認をしておきたいので」
「えっ、保健室に!? 午前中に薬をもらいに行ったばかりじゃないですか。また行ったら、今度こそ凍っちゃいますよ!」
ミアが目を丸くして身を乗り出す。昨日、男子生徒が怪我の治療すら拒絶したように、極寒の保健室は学園内で完全に孤立した場所となっている。職員室の教師たちの間でも、あそこは不用意に近づくべきではない領域として暗黙の了解が敷かれていた。
だが、アレンは表情を変えず、温厚な笑みを浮かべたまま答える。
「生徒がいつでも安心して頼れる保健室を取り戻すためには、まず教師間の連携が必要です。それに、少し厚着をして行きますから大丈夫ですよ」
「うぅ……気をつけてくださいね」
心配そうな顔で道を開けるミアに「すぐ戻ります」と告げ、アレンは教室を後にした。
旧校舎の最も奥、日当たりの悪い北側の突き当たり。
人気のない廊下を進むにつれて、周囲の空気が急速に冷え込んでいく。アレンは体内の魔力を微細に循環させ、皮膚の表面に極薄の断熱層を展開した。物理的な防寒具など何一つ身につけていないが、この高度な魔力操作によって体温の流出は完全に遮断されている。
窓枠には白い霜がびっしりと降り、異常な冷気で収縮した床板が、アレンが1歩踏み出すたびにミシミシと軋む音を立てる。
アレンは呼吸のペースを一切乱すことなく、冷え切った真鍮のドアノブの横の扉を2回ノックした。
「……誰」
扉の向こうから、鈴が凍りついたような、冷たく硬い声が響く。
「アレン・スミスです。午前中はお世話になりました。少し、よろしいですか」
アレンは返事を待たずにドアノブを回し、氷点下に凍りついた室内へと足を踏み入れた。
厚いカーテンが引かれた薄暗い部屋の中央。事務デスクの前で、保健医のリズ・アーデルハイトは数時間前と全く同じ姿勢で、分厚い白いオーバーコートに身を包んで小さく丸まっていた。
「……また来たの。凍るって、言ったのに」
リズは膝に顔を埋めたまま、威嚇するような、それでいて微かに震える声で拒絶の言葉を口にする。彼女の身体からは、絶え間なく目に見えるほどの白い冷気が波紋のように溢れ出し、室内の温度をさらに急激に下げていく。
意図的な攻撃ではない。彼女の体内に宿る強大すぎる氷の精霊の力が、本人の制御を離れて暴走し続けているのだ。放っておけば、この冷気はいずれ保健室の扉を抜け、旧校舎全体に深刻な被害を及ぼすだろう。
アレンは鞄を持ったまま、彼女のデスクのすぐ側まで歩み寄った。
「アーデルハイト先生。あなたのその冷気は、あなた自身をもひどく苦しめている。少し、失礼しますよ」
アレンは鞄をデスクの端に置くと、魔力の断熱層を纏った素手を、リズが羽織っている白いオーバーコートの肩口にそっと置いた。
「っ……! 駄目、離れて……!」
リズが悲鳴のような声を上げ、身体をよじろうとする。彼女の体表面から吹き荒れる絶対零度に近い冷気が、アレンの腕を凍らせ、細胞を破壊しようと鋭い牙を剥く。
だが、アレンの表情は全く変わらなかった。
アレンは自身の魔力を極細の糸のように編み上げ、リズの体内に流し込んだ。
暗殺術『魔力断裂』。本来は標的の魔力回路を内部から破壊し、数秒で命を奪うための極秘技術だ。アレンは今、そのベクトルを完全に反転させていた。
彼女の体内から際限なく湧き出す冷気の波長、その振幅と周期をコンマ数秒の単位で正確に読み取る。そして、それと全く同じ波形で、位相だけを反転させた自らの魔力を、彼女の魔力回路の結節点に向けてピンポイントでぶつける。
音と光を相殺するのと同じ原理だ。寸分の狂いも許されない、綱渡りのような魔力制御。失敗すればアレンの腕は凍り落ち、リズの魔力回路は致命的なダメージを負う。
しかし、裏社会の頂点で無数の命を刈り取ってきたアレンにとって、それは日常的な呼吸と同じくらい容易な作業だった。数万回の殺戮の中で培われた精密すぎる魔力操作が、今は1人の女性を救うために行使されている。
ピタリ、と。
リズの身体から吹き荒れていた冷気の波が、嘘のように完全に停止した。
「……え?」
リズが顔を上げ、信じられないものを見るように自分の両手を見つめる。
彼女の体内から溢れ出す膨大な冷気は、皮膚の表面に出る直前で、アレンの流し込んだ魔力網によって完全に中和され、無害な魔力となって空間に霧散している。
新たな冷気の供給を絶たれた室内の気温が、急速に上昇し始めた。
窓枠を覆っていた白い霜が溶け、透明な水滴となってガラスを流れ落ちる。凍りついていたベッドの金属フレームが元の銀色の光沢を取り戻し、床に張っていた薄氷が音を立てて崩れていく。
リズの吐く息が、白から透明へと変わった。
「私の、冷気が……消えた?」
「消したわけではありません。あなたの魔力と真逆の性質を持つ力をぶつけて、中和しているだけです」
アレンはリズの肩から静かに手を離し、数歩だけ後ろに下がって適切な距離を取った。中和のための魔力網は彼女の身体の表面に定着しており、これから数時間は自動で冷気を相殺し続けるはずだ。
リズは分厚いオーバーコートの袖から手を出し、自分の両頬にそっと触れた。
「冷たくない……痛くない……」
彼女の銀色の瞳が大きく見開かれ、震える声が室内に響く。
物心ついた時から、彼女の周囲は常に氷点下だった。他者を凍らせないために人を遠ざけ、自分自身も極寒の中で孤独に耐え続ける生涯。その呪いのような力が、今、完全に抑え込まれている。彼女は呆然としたまま、周囲の氷が溶けていく保健室の情景を見渡していた。
アレンはデスクの上に溜まり始めた水滴をハンカチで拭き取りながら、静かな声で告げた。
「霜が溶けて、床が随分と濡れてしまいましたね。あとでモップを取りに行きましょうか」
「……え」
突然の実務的な言葉に、リズは我に返ったようにアレンを見た。
自分が長年苦しんできた呪縛が解けたというのに、目の前に立つこの男は、まるで窓を開けて換気をしたかのような、あまりにも日常的で平然とした態度を崩さない。
「これで、怪我をした生徒がいつでもここに駆け込めるようになります。薬品の補充や設備の点検など、私に手伝えることがあれば言ってください」
アレンはあくまで1人の教師として、彼女に向き合っていた。同情するわけでも、恩着せがましく振る舞うわけでもない。「保健室が機能しないのは困るから、直した」という合理的なスタンスだ。
その対等な距離感が、リズの内に眠っていた大人の女性としての矜持を呼び覚ました。
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がると、無意識に身を縮めていた背筋をスッと伸ばし、分厚いオーバーコートの襟を正した。
「……必要ない。設備の管理も、薬品の補充も、保健医である私の仕事よ」
凛とした、透明感のある声だった。そこに先ほどまでの刺々しい拒絶や怯えはなく、自身の役割を取り戻した静かな決意が宿っている。
アレンは満足そうに小さく頷いた。
「頼もしいですね。それでは、怪我人が出た時はこちらに送りますので、処置をお願いします」
「……ええ。任せて」
リズは深く頷き、デスクの上のカルテをまっすぐに揃えた。
アレンは自分の鞄を手に取り、出口へと向かった。今日はこれで十分だ。これ以上の干渉は、彼女の自立心を損なう。
「それでは、私はそろそろ昼食に向かいますので。失礼します」
アレンがドアノブに手をかけた時だった。
「……待って」
背後から、リズの呼び止める声がした。
振り返ると、彼女はデスクの前に立ったまま、アレンを真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、孤独から救い出してくれた相手に対する、不器用だが確かな信頼の色が浮かんでいる。
「その魔力による中和は……どれくらい、持つの」
「そうですね。私の見立てでは、もって数時間といったところでしょう。放っておけば、また夕方には冷気が漏れ出し始めます」
「……そう」
リズはわずかに視線を落とし、少しだけ唇を噛んだ。
アレンはドアを開け放ち、廊下の空気を入れる。
「ですから、明日の昼休みにでも、また魔力の調整に伺います。保健室が凍りついては、担任としても困りますからね」
アレンが穏やかな笑みを向けると、リズはハッとしたように顔を上げ、ほんのわずかに、口元に安堵の笑みを浮かべた。
「……わかった。待っているわ」
アレンは軽く一礼し、保健室の扉を閉めた。
旧校舎の廊下を歩く。魔法の断熱層を解除すると、古い木造校舎の埃っぽい匂いと、春のような暖かな空気が肺を満たした。
これで1つ、学園内の問題が片付いた。アレンは生徒たちが集まる食堂のメニューに思いを馳せながら、穏やかな足取りで廊下を進んでいった。




