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第4話 採点と、午後の紅茶の香る部屋

 アルカディア魔法学園の昼下がりは、活気と少しの怠惰が入り混じった独特の空気に包まれる。

 午前の授業を終えた生徒たちが中庭で弁当を広げる談笑の声や、午後の実技に向けてグラウンドを走る運動部の足音が、開け放たれた窓から心地よいBGMとして流れ込んでくる。

 本校舎1階の大職員室では、数人の教師たちが昼休憩を取りながら、午後の授業準備や事務作業に追われていた。

 アレン・スミスは自席で、第7特別クラスの生徒たちに課した魔法基礎理論の小テストの採点を行っていた。赤ペンを走らせる手つきは滑らかで、一切の迷いがない。

 正解の丸、不正解の斜線。時には余白に、生徒のつまずきやすいポイントを指摘する丁寧な解説を書き加える。

 生徒たちの理解度は決して高くはない。だが、初日は白紙ばかりだった答案に、少しずつだが基礎知識が身につき始めている痕跡が読み取れた。アレンは人の良さそうな笑みを浮かべ、次の答案用紙をめくる。


 ふと、斜め向かいの席から微かなため息が聞こえた。

 セシリア・フォン・ローズが、山積みになった書類の束と睨み合っている。

 いつもの隙のないタイトスカートとブラウス姿で背筋を伸ばし、休むことなく羽ペンを走らせているが、その目元には隠しきれない疲労の影が落ちていた。生真面目で不器用な彼女のことだ、昨日の実技授業の後も、遅くまで単独で魔法制御の反省とシミュレーションを繰り返していたのだろう。

 アレンは視線を答案用紙に戻し、再び赤ペンを動かし始めた。

 あと5枚ほどで、このクラスの採点も終わる。そうすれば、午後の授業まで少し長めの休憩を取ることができる。


 その時だった。

 アレンの意識の最深部で、極めて微小な異変を告げる警鐘が鳴った。

 学園を囲む防犯結界。その一部、旧校舎裏の森と接する境界線上で、魔力の網の目が不自然に歪められた感覚。

 野犬や低級の魔物ではない。明確な意志を持って結界の網目をすり抜けようとする、人間の気配だ。

 数は3人。

 足音を殺し、魔力を慎重に抑え込んでいるが、アレンの研ぎ澄まされた探知からすれば、素人に毛が生えた程度の隠蔽技術だ。歩幅や体重移動の癖から、数日前に路地裏で処理した暗殺ギルドの連中と同質の訓練を受けていることがわかる。

 戻ってこない先発隊の足取りを追って、学園内部の調査に探索部隊が送り込まれてきたのだろう。

 このまま放置すれば、彼らは学園内に侵入し、生徒や教師の情報を嗅ぎ回る。最悪の場合、生徒の誰かが彼らと鉢合わせし、学園がパニックに陥る。

 午後の平穏な授業と、静かな職場環境を守るため、波風の種はここで確実に摘み取る。

 アレンは手元の答案用紙に最後の丸を書き込み、赤ペンをペン立てに戻した。


「すみません、ミア先生。少し午後の資料を準備室に取りに行ってきます。留守をお願いできますか」

「あ、はい! いってらっしゃいませ、アレン先生」


 隣の席で弁当箱を開けようとしていたミアが、明るい声で返事をする。

 アレンは「すぐ戻りますよ」と柔和な笑顔を向け、席を立った。


 職員室を出て、人気のない旧校舎の裏手へと向かう。

 日差しを遮る背の高い樹木が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗い死角となっている場所だ。

 アレンが歩みを進めるごとに、その存在感は周囲の空気に溶け込み、完全に消失していく。


 ――【認識阻害】。


 足音はおろか、呼吸の音、服が擦れる微かな音さえも世界から切り離される。


 旧校舎の裏手、古びたレンガ壁の陰に、黒い外套に身を包んだ3人の男が潜んでいた。

 彼らは周囲を警戒しながら、学園の見取り図らしき羊皮紙を広げて小声で言葉を交わしている。


「先発の3人が消えたのはこの街だ。最後に残った痕跡は、この学園の周辺で途絶えている」

「チッ、こんな辺境の学校に『幻影』が潜んでいるとは到底思えねえが……。とにかく、目ぼしい教員と生徒のリストを作るぞ」

「見つかったらどうする?」

「その時は口封じだ。ガキと田舎教師ばかりだ、造作もない」


 彼らの言葉が、木漏れ日の中に落ちる。

 アレンは彼らから数メートル離れた木の陰に立ち、音もなく左手の指先を動かした。


 瞬間、3人の男たちの足元にあった彼ら自身の影が、意思を持った刃のように跳ね上がった。

 漆黒の影は瞬く間に彼らの足首から胴体、そして口元までをきつく縛り上げ、一切の身動きと発声を封じる。


「……っ!?」


 何が起きたのか理解できず、男たちが恐怖に見開いた目をギョロギョロと動かす。

 アレンは視線すら向けず、微かな魔力を束ねた右手を軽く握り込んだ。

 影を通じて男たちの体内に直接流し込まれた致死量の魔力が、彼らの心臓を外側から無慈悲に鷲掴みにする。急性心不全。

 骨の折れる音も、血の飛沫も上がらない。

 3人の刺客は、目を見開いたまま同時にビクンと痙攣し、そのまま二度と動かなくなった。

 アレンがゆっくりと手を開くと、拘束していた影が広がり、3つの死体と羊皮紙を底なしの沼のように呑み込んでいく。

 数秒後には、現場には微かな痕跡すら残っていなかった。

 木々の間を吹き抜ける風が、周囲の空気を入れ替えていく。

 アレンはその場を後にし、旧校舎の準備室へと向かった。予定通り、午後の魔法基礎で使う図解パネルを数枚小脇に抱え、穏やかな足取りで大職員室へと戻る。


「戻りました。お留守番、ありがとうございます」

「おかえりなさい! 私も今お弁当を食べ終わったところです」


 自席に戻ったアレンは、抱えていたパネルをデスクの端に置き、椅子に腰を下ろした。

 ふと視線を向けると、斜め向かいのセシリアはまだ書類と睨み合っていた。ペンの動きはさらに鈍くなっている。

 アレンは自席の引き出しから、王都から赴任する際に持ち込んだ上質な茶葉の入った小瓶を取り出した。

 急須に茶葉を入れ、共有の魔導ポットから熱湯を注ぐ。立ち昇る華やかで深みのある香りが、アレンのデスク周辺から職員室の空間へとふわりと広がった。

 アレンは自分のティーカップにだけ、美しい琥珀色の紅茶を注ぐ。


 ふと、斜め向かいから小さく息を吐き出す音が聞こえた。

 紅茶の香りに気づいたセシリアが、羽ペンを置いて顔を上げていた。強張っていた彼女の肩の力が自然と抜け、険しかった眉間の皺がわずかに平らかになっている。


「……とても良い香りですね。スミス先生」

「王都から持ち込んだ、私の故郷の茶葉です。香りを嗅ぐだけでも頭の疲れによく効きますよ」


 アレンは自分のカップを手にしながら、温厚な声で答えた。


「ローズ先生、その書類……来月の合同実技演習の申請書ですね。もしよろしければ、書式の作成は私が半分引き受けましょうか。第7クラスの分も兼ねていますから」


 アレンからの突然の業務分担の申し出に、セシリアは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく首を横に振った。


「……お気遣いありがとうございます。ですが、私が担当すると言った以上、最後まで自分でやり遂げます」

「そうですか。無理は禁物ですよ」

「ええ。ですが……」


 セシリアは漂ってくる紅茶の香りをもう一度ゆっくりと吸い込み、少しだけ目元を緩めた。


「あなたの言う通り、少し香りに甘えて、休憩をとることにします」

「それがいい。存分に吸い込んでください」


 アレンが柔らかく微笑み返すと、セシリアは背もたれに深く身を預け、静かに目を閉じた。

 アレンは椅子に腰掛けたまま、自身の紅茶を一口味わった。

 窓の外からは、生徒たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。職員室の中には、紅茶の香りと穏やかな時間が流れている。

 アレンはカップを置き、午後の授業の準備に取り掛かった。

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