第3話 氷の美貌と、見えない補助線
朝の冷え込んだ空気が、本校舎1階の大職員室を満たしている。
アレン・スミスは自分のデスクに広げた出席簿に目を通しながら、斜め向かいの席に座る同僚の姿を視界の端に収めていた。
セシリア・フォン・ローズ。
美しい、という言葉すら陳腐に聞こえるほどの圧倒的な美貌の持ち主だった。艶やかな長い黒髪は一糸乱れず背中に流れ、仕立ての良いタイトスカートとブラウスを隙なく着こなしている。背筋は定規を当てたように伸び、その冷たく透き通るような眼差しは、周囲の人間を無意識のうちに遠ざける強いオーラを放っていた。
他の教師たちも彼女には最低限の業務連絡しか行わず、遠巻きに「近寄りがたいエリート貴族」として扱っている。
「おはようございます、ローズ先生」
アレンが声をかけると、セシリアは手元の書類から顔を上げずに短く返した。
「……おはようございます、スミス先生」
声のトーンは低く、氷のように冷たい。
だが、アレンの長年培われた観察眼は、彼女の表面的な冷たさの下にある別の情報を正確に拾い上げていた。
彼女が書類に文字を書き込む羽ペンの先が、わずかに小刻みに震えている。時折ペンの動きが不自然に止まり、浅く、短い呼吸を繰り返している。
極度の緊張、あるいは過大なプレッシャーによる自律神経の乱れ。暗殺対象の精神状態を測る際に、アレンが何千回と観察してきた兆候だった。
彼女は高飛車に周囲を拒絶しているのではない。周囲の視線や失敗への重圧に怯え、余裕をなくしているだけだ。
アレンは「今日も冷えますね」と軽く微笑みかけ、自分のデスクの引き出しを開けて午後の授業の準備を始めた。
午後の第3グラウンド。
アレンは第7特別クラスの生徒たちに、魔法を行使するための基礎体力作りとして、グラウンドの外周を走らせていた。副担任のミアが「ほら、頑張って!」と声をかけながら生徒たちの横を伴走している。
アレンが木陰からストップウォッチ片手に生徒たちを見守っていると、数十メートル離れた隣のエリアから生徒たちのざわめきが聞こえてきた。
セシリアが担当する一般クラスの実技授業だった。
生徒たちは、教壇の代わりとなる一段高い石組みの上に立つセシリアを、興味本位と冷やかしの混じった目で見つめている。かつての名門、ローズ家の令嬢。その実力がいかほどのものか、あるいは噂通り没落した無能なのか、品定めするような無遠慮な視線。
セシリアは右手で杖を強く握りしめ、左手を前にかざした。
中級魔法『火炎球の精密制御』。標的を焼き尽くすのではなく、空中の一定の座標に炎を留め、熱量と形状を完全にコントロールする高度な技術だ。
「……炎よ。我が意志に従い、その形を結べ」
凛とした詠唱とともに、セシリアの足元から青白い魔力の光が立ち上る。
魔力の総量、立ち上がりの速度、どれをとっても並の教師をはるかに凌駕する圧倒的なポテンシャルだった。
だが、彼女の左手の先で結像し始めた炎の球体は、わずか数秒でその輪郭を激しく歪ませ始めた。
ゴォォォッ、という不穏な音を立てて、炎が赤黒く変色し、不規則に膨張する。
(呼吸が浅い。魔力回路が収縮し、指向性がひどくブレているな)
アレンは木陰から視線を動かさず、彼女の体内で起きている現象を正確に分析した。
極度のあがり症。どれほど膨大な知識と魔力を持っていても、多数の視線に晒された恐怖が、彼女の身体機能と魔力制御を麻痺させている。
炎はすでにバスケットボールほどの大きさに膨れ上がり、セシリアの制御から離れて暴走の兆候を見せていた。
生徒たちが異変に気づき、悲鳴を上げて後ずさりし始める。セシリアは顔面を蒼白にし、震える両手で必死に魔力を抑え込もうとしているが、恐怖で強張った回路は言うことを聞かない。
このまま炎が破裂すれば、最前列の生徒たちに熱波が直撃する。
アレンは木陰に立ったまま、手元のストップウォッチを持った右腕を下ろし、ポケットに突っ込んでいた左手の指先をセシリアの方向へ向けた。
――【認識阻害・魔力針】。
アレンの指先から、自身の気配と魔力の残滓を完全に消し去った、極細の魔力の糸が撃ち出された。
それは誰の目にも見えず、いかなる魔力探知にも引っかからない。暗殺術における『魔力断裂』――標的の魔力回路を遠距離から内部破壊する狙撃技術の応用。
数十メートルの距離を音もなく駆け抜けた魔力の針は、暴走する赤黒い炎の中心、セシリアの乱れた魔力回路の結節点へと正確に突き刺さった。
破壊ではなく、千切れかけた彼女の魔力の糸を、外側から強制的に束ね直し、正しい経路へと一瞬だけ誘導する。
激しく膨張していた炎が、嘘のようにピタリと静止した。
次いで、炎は余分な熱を捨て去り、青白く澄んだ、洗練された球体へと瞬時に圧縮された。音もなく空中に固定されたそれは、芸術品のように美しい炎だった。
セシリアが小さく息を呑むのが、遠く離れたアレンの目にも見えた。
生徒たちが驚嘆の声を上げ、割れんばかりの拍手がグラウンドに響き渡る。彼女を見下していた視線は、畏敬と称賛の色に変わっていた。
セシリアは杖を下ろし、信じられないものを見るような目で自分の左手を見つめている。
アレンは静かに魔力の糸を霧散させ、再びストップウォッチに目を落とした。
「はい、そこまで。息を整えて、歩きながらもう半周しましょう」
アレンは自分のクラスの生徒たちに向かって声をかけた。
夕暮れの本校舎、大職員室。
アレンは自席に座り、第7クラスの生徒たちが提出した小テストの採点を行っていた。室内にいるのは彼1人だけだ。他の教師たちはすでに帰宅しているか、部活動の監督で席を外している。
軋む音を立てて、職員室の扉が開いた。
入ってきたのはセシリアだった。彼女はいつもの隙のない姿勢を崩し、足取りも重く、隠しきれない疲労を背中に滲ませていた。
自分のデスクにたどり着くなり、彼女は椅子に崩れ落ちるように座り、両手で顔を覆って深く息を吐き出した。張り詰めていた糸が切れ、ただの疲れ切った若い女性の姿がそこにあった。
アレンは採点の手を止め、引き出しの中から個包装された小さなチョコレートを1つ取り出すと、彼女のデスクの端に置いた。
「お疲れ様です、ローズ先生。今日の授業、素晴らしかったですね」
アレンが労うと、セシリアはびくっと肩を震わせ、両手の隙間からアレンを見上げた。
その目にはいつもの冷たい光はなく、困惑と自信のなさで揺れていた。
「……スミス先生」
セシリアは机の上に置かれたチョコレートとアレンを交互に見つめ、やがて力なく視線を落とした。
「私、途中で魔力の制御を見失いかけました。多数の視線に息が詰まってしまって……。でも、突然、乱れた魔力が外から矯正されたような、正しい道筋を強引に示されたような感覚があったんです」
彼女は震える指先で、自分の左手を握りしめた。自分の実力ではない何かが働いたことを、確信に近いレベルで感じ取っている。彼女のプライドと真面目さが、それを自分の手柄にすることを許さないのだろう。
アレンは静かに答えた。
「ローズ先生の魔力は、基礎構築の段階から見事なものでしたよ。プレッシャーで少し流れが乱れたとしても、日々の鍛錬の賜物でしょう。ご自身の身体が、正しい形をしっかりと記憶していたのですよ」
「……私の、身体が」
「ええ。私のような平凡な教師には到底真似できない、見事な炎でした」
アレンが頷くと、セシリアはしばらく黙り込み、やがて机の上のチョコレートにそっと指先で触れた。
張り詰めていた表情がわずかに緩む。
「……ありがとうございます、スミス先生。少しだけ、救われました」
彼女が小さく零した声は、不器用だが、混じり気のない純粋な安堵の色に染まっていた。
アレンは小さく頷き、自席へと戻った。
再び赤ペンを握り、小テストの採点を再開する。
窓の外では、完全に日が落ち、穏やかな夜が始まろうとしていた。




