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第2話 実習生と、完璧な黒衣の裏方

 アルカディア魔法学園の朝は、ひんやりとした静寂から始まる。

 辺境特有の底冷えする空気が、東の山際から昇る陽の光に溶かされ、少しずつ緩んでいく。石畳の坂道を登りながら、アレン・スミスはゆっくりと冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。

 土と青草の匂い。遠くの森で響く鳥のさえずり。すれ違う生徒たちの、眠たげだが柔らかな表情。

 誰もが当たり前のように享受しているこの朝の風景が、今のアレンにとってはひどく新鮮だった。誰かに尾行されていないか背後の足音を探る必要も、すれ違いざまに抜き放たれる刃物を警戒する必要もない。ただ一定の歩幅を保ち、己の職場へと向かうだけの時間。

 赴任初日の朝。アレンの足取りは、昨日薄暗い路地裏で3つの命を処理したことなど微塵も感じさせないほど、どこまでも軽く穏やかだった。


 本校舎の1階に位置する大職員室。その片隅、窓際の最も目立たない場所に、第7特別クラスの担当教員に割り当てられたデスクがある。

 アレンが重厚な木製の扉を開けて中に入ると、早朝ということもあり他の教師たちはまだまばらだった。しかし、自分のデスクのすぐ隣には、すでに先客の姿があった。


「ああもう、また順番が……! 違う、このプリントは午後の分で……!」


 小山のように積まれた資料と格闘している若い女性。

 簡素な白いブラウスに、動きやすさを重視した紺色の実習用スカート。黒髪を背中で一つにまとめた彼女は、見た目からしてまだ20歳そこそこだろう。

 アレンが足音を立てずに近づいたことにも気づかず、彼女は必死に紙の束をめくっている。しかし、焦りからか手元が狂い、不安定に積まれていた資料のタワーがぐらりと傾いた。


「あっ……!」


 彼女の短い悲鳴とともに、数十枚の紙片がデスクから滑り落ちようとする。

 アレンは鞄を自分の椅子に置く動作から、ごく自然に手を伸ばした。落ちていく紙の束の側面に手を添え、床に散らばる直前でそっと挟み込むようにして受け止める。


「はい、どうぞ。午後の分のプリントですね」


 アレンが柔和な笑みを浮かべて差し出すと、彼女は目を丸くして、差し出された資料とアレンの顔を交互に見比べた。


「あ、ありがとうございます……あの、どちら様でしょうか?」

「おはようございます。今日から第7特別クラスの担任として赴任しました、アレン・スミスです。よろしくお願いしますね」

「あっ! わ、私、教育実習生のミア・フローレンスと申します! 第7クラスの副担任として、補佐につかせていただきます!」


 ミアは慌てて立ち上がり、直角に近い角度で勢いよく頭を下げた。その拍子に、彼女のデスクの端にあったペン立てが揺れ、中のペンが数本床に転がり落ちる。

 アレンは苦笑を漏らさないようにしながら、しゃがみ込んでペンを拾い集めた。転がったインク小瓶も拾い上げ、彼女のデスクの空いたスペースにそっと置く。


「補佐だなんて、そんな。私もこの学園のことはまだ右も左も分かりません。お互い、助け合いながらやっていきましょう」

「ミアで結構です! 私、実習生なのにこんな難しいクラスの担当になってしまって……正直、すごく不安だったんです」


 拾ったペンをデスクに戻すと、ミアは少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。透き通るような白い肌と、隠しきれない人の良さが滲み出る瞳。彼女には、裏表というものが一切存在しないのだろうとアレンは直感した。


「難しいクラス、ですか」

「はい。第7特別クラスは、学園の中でも色々と事情を抱えた生徒が集まる隔離クラスで……反抗的な子や、全く授業に出てこない子もいるそうです。前の担任の先生も、すぐに辞めてしまったらしくて……」

「なるほど」


 アレンは相槌を打ちながら、自分のデスクの引き出しに荷物をしまった。

 新米の教育実習生にとっては、確かに荷が重い環境かもしれない。だが、アレンにとってはさして問題ではなかった。


「大丈夫ですよ。命まで取られるわけじゃありません」

「ええっ!? そ、そんな物騒なクラスなんですか!?」

「いえ、ただの冗談です。私のような平凡な教師でもなんとかやっていけるよう、肩の力を抜いていきましょう」


 アレンが人の良さそうな笑顔を作って見せると、ミアは「もう、脅かさないでくださいよ」と少しだけ頬を膨らませた。


 朝礼の鐘が鳴り、2人は並んで旧校舎にある第7特別クラスの教室へと向かった。

 軋む扉を開けると、そこには10名ほどの生徒がいた。定員は20名のはずだが、半分は登校すらしていないらしい。

 窓の外をぼんやりと眺めている者、机に突っ伏して寝ている者、教壇に立つアレンたちを値踏みするように睨みつけてくる者。

 ミアの言った通り、健全な向学心に満ちた教室とは言い難い。重く、淀んだ空気が充満していた。だが、アレンはその空気を肺の奥深くまで吸い込み、温厚な表情を一切崩さずに教卓の前に立った。


「おはようございます、皆さん。今日からこのクラスの担任になるスミスです。未熟者ですが、よろしく頼みますね」


 声のトーンを少しだけ上げ、親しみやすさを前面に押し出した自己紹介。

 続いて、ミアが一歩前に出た。


「ふ、副担任のミア・フローレンスです! 一生懸命頑張りますので、よろしくお願いします!」


 緊張で少し上ずった彼女の声は、静まり返った教室に空しく響いた。生徒たちからのまともな反応はない。

 その時だった。

 教室の後方、足を机に乗せて座っていた男子生徒が、面倒くさそうに舌打ちをし、手の中で丸めていた紙くずを教卓に向けて弾き飛ばした。

 それはミアの顔面を真っ直ぐに狙った、陰湿な軌道を描いていた。

 ミアが飛んでくる紙くずに気づき、目を見開いた瞬間。

 アレンは黒板に名前を書こうと伸ばしていた左手を、ごく自然な動作で顔の高さに引き戻した。

 パシッ、と軽い音が鳴る。

 丸められた紙くずは、ミアの鼻先数センチのところで、アレンの指の間にあっさりと挟まれていた。


「……ん?」


 投げた生徒が怪訝な顔をする。偶然、アレンが手を動かした先に紙くずが当たったようにしか見えなかったからだ。

 アレンは人の良さそうな笑顔を崩さず、指先の紙くずを教卓の横にある小さなゴミ箱へと放り投げた。


「ゴミはゴミ箱に捨てましょうね。清掃員の方の仕事を増やしてはいけませんから」


 静かな、だが教室の隅まで通る柔らかな声。そこには怒りも挑発もなく、ただの人の良い教師の顔があった。

 生徒は気まずそうに視線を逸らし、机から足を下ろした。それ以上の反抗的な態度は見られなかった。

 隣で呆然としていたミアが、小さな声で「ありがとうございます」と囁いた。アレンはただ、「怪我がなくてよかった」と優しく微笑み返しただけだった。


 午前中の授業は、拍子抜けするほど平穏に進んだ。

 アレンが担当する魔法基礎理論の授業。黒板に呪文の構成式を書き出し、淡々と、しかし丁寧な口調で解説を加えていく。生徒たちは相変わらず無気力で、窓の外を眺めたり、机に突っ伏したりしている者もいたが、積極的に授業を妨害しようとする者はいない。

 時折、アレンが振り返って視線を向けると、彼らは気まずそうに顔を伏せたり、慌ててノートを開く素振りを見せたりした。初日の朝礼での対応が、彼らの中に『この教師は底が知れない』という適度な距離感を生んだのだろう。

 アレンにとっては、誰かに命を狙われる緊張感に比べれば、この静かな無視など無に等しい。むしろ、チョークの粉が舞う教室の空気すら、ひどく平和で心地よかった。


 問題が起きたのは、午後の魔法基礎の実習準備の時だった。

 旧校舎の準備室から、実験に使う水と薬品の入った重いガラス瓶を、ミアが両手で抱えて運んでいた。

 アレンは少し離れた場所から、黒板に図解を書きながら彼女の動きを視界の端に収めていた。


(……足元が危ないな)


 ミアの歩く先の床板が、経年劣化でわずかに浮き上がっている。重い荷物で足元が見えていない彼女は、そのまま真っ直ぐに歩いていく。

 アレンがチョークを置いた。


「あっ!」


 ミアの爪先が浮いた床板に引っかかり、彼女の体が大きく前のめりにバランスを崩した。

 抱えていたガラス瓶が手から離れ、宙に浮く。床に叩きつけられれば粉々に砕け、中の薬品が散乱する大惨事だ。

 だが、ガラスの砕ける音は鳴らなかった。


 トン、と鈍い音が響く。落下しかけたガラス瓶の底を、アレンの掌が下から受け止めていた。

 同時に、彼の左腕が転倒しかけたミアの肩を支え、体勢を立て直させる。

 周囲にいた生徒たちには、まるでアレンが最初からそこに立っていて、偶然荷物を受け取ったようにしか見えなかっただろう。気配を断ち、一瞬で数メートルの距離を詰める移動術の応用。


「大丈夫ですか」

「えっ……あ、スミス先生? いつの間に……っ、すみません! 私、またドジを……!」

「重いものは、次から半分に分けて運びましょう。それに、この床板は後で私が修理しておきます。あなたが気にする必要はありませんよ」


 アレンはガラス瓶を教卓の上に静かに置き、ミアにハンカチを差し出した。

 彼女は顔を真っ赤にしてハンカチを受け取り、何度も頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。スミス先生がいなかったら、今頃どうなっていたか……」

「たまたま近くにいただけですよ。さあ、授業を始めましょうか」


 アレンは柔和な笑みを崩さずに返し、教壇に立った。

 

 放課後。

 生徒たちが帰り、本校舎の職員室には、残業をしているアレンとミアの2人だけが残っていた。他の教師たちはすでに退勤したか、それぞれの業務で席を外している。

 ミアは自分のデスクで、今日の授業の反省点をノートに書き込んでいる。その横顔は真剣そのもので、何度失敗してもへこたれない芯の強さが感じられた。

 アレンは給湯室で湯を沸かし、昨日街で買った焼き菓子の袋を開けた。


「少し、休憩にしませんか」


 アレンが声をかけると、ミアは弾かれたように顔を上げた。

 アレンは彼女のデスクの空いたスペースに、湯気を立てる紅茶の入ったカップと、焼き菓子を乗せた小皿を置いた。


「わあ……! いいんですか?」

「ええ。赴任の挨拶代わりに買ってきたものです。甘いものは頭の疲れを取りますから」


 ミアは嬉しそうに目を細め、クッキーを一口かじった。


「美味しい……! ありがとうございます、スミス先生」

「アレンでいいですよ。それに、ミア先生はよく生徒を見ていましたね。3時間目の時、窓際の生徒が気分を悪くしているのに気づいて、すぐに声をかけたでしょう。あれは私にはできませんでした」


 アレンの言葉は嘘ではなかった。

 彼の長年培ってきた観察眼は、常に脅威や殺意に向いている。そのため、生徒の微細な体調不良や、人間関係の機微に気づくのは、自分よりもミアの方が遥かに優れていた。

 ミアは少し驚いたように目を瞬かせ、やがて照れくさそうに笑った。


「そんな、私なんて全然です。でも……アレン先生が担任で、本当に良かったです。私、もっと頑張りますね!」


 真っ直ぐに向けられた純粋な敬意の眼差し。

 アレンは小さく頷き、自分のカップを手に取った。

 窓の外では、夕焼け空を背景に、部活動の生徒たちの声が遠く響いている。

 アレンはカップを傾け、琥珀色の紅茶を一口飲んだ。香ばしい茶葉の香りが、ゆっくりと肺の奥へと染み渡っていく。

 隣のデスクでは、ミアがふたたびペンを握り、真剣な眼差しでノートに向かっていた。カリカリという小さな筆記音だけが、静かな室内に響いている。

 アレンは小さく息をつき、椅子の背もたれに深く体重を預けた。

 明日の授業の準備は、もう少しだけ後回しにしてもいいかもしれない。

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