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第1話 辺境の学園と平凡な教師

 馬車の木製車輪が不揃いな石畳を跳ねる単調な音が、心地よい子守唄のように響いていた。荷台を揺らす微かな振動さえも、今のアレンにとっては自由の証のように感じられる。

 アレン・スミスは、向かいの席に誰もいない貸し切りの馬車の中で、手元の羊皮紙を満足げに眺めていた。差し込む午後の陽光が、インクの筆跡をくっきりと照らし出している。


「アルカディア魔法学園、新任教師赴任辞令」


 羊皮紙特有の微かな獣の匂いと、インクの匂いが混じったその書類は、間違いなく王国の公的機関が発行した本物だ。もっとも、アレンという名前も、ここに記された平凡な経歴も、すべてアレン自身が数日かけて裏ルートを駆使し、寸分の狂いもなく偽造したものだが。

 年齢、30歳。経歴は、王都のしがない私塾で数年教鞭をとった後、田舎でのんびり暮らしたくて辺境の学園に応募した、魔力も人並みの平凡な男。誰がどう調べても、野心のない、ただの人の良い教師にしか見えない設定がそこにはある。

 アレンは書類を丁寧に折りたたみ、使い込まれた革の鞄にしまった。窓の外に目を向けると、王都の喧騒とは無縁の、のどかな田園風景が広がっている。風に揺れる麦畑が黄金色の波を作り、遠くには雪を頂いた連峰が霞んで見える。通り過ぎる農夫たちが、のんびりと手を振ってくる。血と鉄の匂いなど欠片もしない、澄んだ空気が開け放たれた窓から流れ込んできた。


「……ようやく、ここまで来たな」


 ぽつりと呟いた声は、馬車の軋む音に吸い込まれて消えた。


 アレンには前世の記憶がある。コンクリートのジャングルで、深夜まで青白いパソコンの画面と睨み合い、上司の罵声と絶え間ない締め切りに追われ続ける日々。胃薬を水で流し込みながらキーボードを叩き続け、過労で倒れた。次に目を覚ました時は、見知らぬ暗い石造りの天井の下だった。

 転生。最初はよくある夢か現実逃避だと思ったが、事態はそう甘くなかった。

 拾われた先が最悪だった。裏社会を牛耳る暗殺者一族。物心つく前から致死量スレスレの毒を盛られて耐性をつけられ、鋭利な刃物の扱いを身体に叩き込まれた。前世で身につけた効率化の思考と人体構造への理解、そして、今世で与えられた並外れた魔力と「影」を操る才能。

 それらが最悪の形で結びつき、アレンは十代の若さにして組織の頂点に立ってしまった。

 コードネーム『幻影』。

 誰もその姿を見た者はなく、標的は確実に死ぬ。魔王軍の幹部だろうが、裏社会のドンだろうが、アレンにとっては等しく『仕事の対象』でしかない。

 だが、結局のところ、やっていることは前世の社畜時代と何も変わらなかったのだ。

 絶え間なく降ってくる暗殺依頼。失敗が即ち死を意味する、血生臭い職場環境。パソコンのマウスが血まみれのナイフに変わっただけで、労働環境は前世よりはるかに悪化していた。休日はおろか、安眠できる夜すらない。常に誰かの命を奪い、誰かから命を狙われる日々。

 30歳を目前にしたある日、アレンの中で何かがプツリと切れた。

 もう嫌だ。普通に生きたい。

 平和な朝を迎え、美味しいお茶を飲み、定時で帰って温かい布団で眠る。そんな当たり前の日常を取り戻したい。

 決意した後の行動は早かった。組織の追跡を躱すため、中枢部を物理的に半壊させ、顧客リストや自身に関する情報の足跡をすべて消し去った。そして、数か月の潜伏期間を経て、この辺境へとやってきたのだ。


「お客さん、着いたよ。ここがアルカディア魔法学園だ」


 御者の声に、アレンは鞄を持って馬車を降りた。運賃に少しばかりの色をつけて渡すと、御者は上機嫌で馬を走らせていった。

 目の前にあるのは、歴史を感じさせるというよりは、単に資金不足で改修が滞っているだけの、ツタの絡まる古い石造りの校舎だった。王都のエリート校が放つような、魔力による威圧感やピリピリとした緊張感はない。どこか気の抜けた、のんびりとした空気が漂っている。

 アレンは深く息を吸い込んだ。

 土と緑の匂い、そして古紙の匂いが微かに混じる。最高だ。

 学園の正門をくぐり、職員室へと向かう。今日は休日のはずだが、部活動や自習のために来ている生徒たちと何度かすれ違った。彼らの顔には、殺意も、明日生き延びるための絶望もない。ただの学生の顔だった。


 教頭との面接は、拍子抜けするほどあっさりと終わった。


「ふむ。王都での指導経験がおありなら、申し分ない。辺境の学園ゆえ、給与はそう高くはないが……」

「いえ、お金は気にしておりません。静かな環境で、生徒たちと向き合えればそれで十分です」


 アレンが人の良さそうな笑みを浮かべて答えると、初老の教頭は安心したように息を吐いた。出されたお茶は安物で少し渋かったが、アレンにとってはどんな高級酒よりも美味しく感じられた。


「それは助かる。実は先生には、少しばかり……手のかかるクラスをお願いしたいのだ」

「手のかかる、ですか」

「第7特別クラス。まあ、色々と事情を抱えた生徒が集まっているところでしてな。前の担任は1か月で胃に穴を開けて辞めてしまった。アレン先生なら、あるいはと……」


 教頭の言葉に、アレンは内心で微笑んだ。

 胃に穴が開くほどの苦労。それは大変だろう。しかし、いつ寝首を掻かれるかわからない環境に比べれば、生徒の反抗など可愛いものだ。刃物を突き立ててこないだけ、はるかに平和な悩みだった。


「承知いたしました。微力ながら、全力を尽くさせていただきます」


 深々と頭を下げるアレンに、教頭は「おお、頼もしい」と顔を綻ばせた。


 割り当てられたのは、職員室の端の小さなデスクと、旧校舎の隅にある第7クラスの教室だった。

 教室の扉を開けると、中は埃をかぶり、机の配置もバラバラだった。床にはゴミが散乱し、黒板は長らく使われていないのか白く汚れている。

 アレンは鞄を教卓に置き、上着を脱いでシャツの腕まくりをした。


「まずは掃除からだな。……ああ、素晴らしい」


 ただの拭き掃除に、これほどの喜びを感じるとは思わなかった。バケツに水を汲み、使い古された雑巾を絞る。冷たい水の感触が心地よい。床の木目を一つひとつ磨き上げ、くすんだ窓ガラスの汚れを落としていく。

 血痕を消すための特殊な薬品も、死体を隠すための偽装工作も必要ない。ただ純粋に、明日からの生活空間をきれいに保つための、前向きで建設的な作業だ。それはアレンの荒んだ心を、少しずつ潤していくようだった。

 2時間ほどかけて教室をきれいにすると、夕日が窓から差し込み、整然と並んだ机を赤く染め始めていた。風通しが良くなった教室は、見違えるように清々しい空間になっていた。


「よし。これで明日の準備は整った。……少し、街に出てみよう」


 赴任の挨拶代わりに、明日出会うであろう同僚の教師たちに配る茶菓子でも買っておきたい。アレンは上着を羽織り、学園の裏門から街へと続く道を歩き出した。


 辺境の街はこぢんまりとしているが、活気があった。

 石畳の通りには所狭しと露店が並び、焼きたてのパンの甘い匂いや、香草と共に肉を焼く香ばしい煙が漂っている。すれ違う人々の屈託のない笑い声、路地裏を駆け回る子供たちの足音。どれもが新鮮で、平和そのものの光景だ。

 アレンは通り沿いにあるこざっぱりとした菓子屋を見つけ、中に入った。ショーケースに並んだ、手作りの素朴な焼き菓子の詰め合わせをいくつか購入する。


「ありがとうね、先生。また来ておくれ」

「ええ、また寄らせてもらいます」


 店のおかみの言葉に笑顔で返し、店を出る。

 両手に抱えた紙袋の温もりを感じながら、学園への帰路についた時だった。


 アレンの歩みが、ほんのわずかに遅くなった。


(……3人、か)


 背後の気配。

 街の雑踏に紛れるようにして、一定の距離を保ちながらこちらを尾行してくる存在がある。

 素人のスリや強盗ではない。足音の消し方、視線の外し方、群衆に溶け込む魔力の抑え方。どれをとっても、専門の訓練を受けたプロのそれだ。


(ギルドの連中か。こんな辺境まで嗅ぎ回っているとは、ご苦労なことだ)


 ため息が出そうになるのをこらえ、アレンは足の裏にかかる体重をわずかに調整した。歩く速度や歩幅は一切変えず、だが向かう先を少しだけ変更する。

 大通りから一本外れた、薄暗い路地裏。

 日が落ちかけ、人通りの途絶えた石畳の道へと、アレンは迷いなく足を踏み入れた。


 路地裏の奥は高い壁に阻まれ、行き止まりになっていた。

 アレンが歩みを止めると同時に、背後から微かな布擦れの音が3つ重なった。退路が塞がれた。


「道に迷ったか、新任の教師殿?」


 背後から声がかけられた。低く、しゃがれた男の声。殺意を隠そうともしていない。

 アレンは振り返らなかった。ただ、手元の紙袋を、中身の焼き菓子が崩れないようにそっと足元の石畳に下ろした。


「おや、人違いではありませんか? 私はただの新任教師ですが」


 あくまで温厚な口調を崩さず、アレンはゆっくりと振り返った。

 夕闇の中、黒い外套に身を包んだ3人の男が立っていた。それぞれの手に、鈍く光る短剣が握られている。


「しらばっくれるな。王都から来た偽装身分の男。お前が『幻影』――」


 男が言葉を切り、間合いを詰めようと一歩を踏み出した、その瞬間だった。


 ――【認識阻害】。


 アレンの姿が、夕闇に溶けるようにブレた。


「なっ……!?」


 男の驚愕の声は、最後まで発音されなかった。

 アレンはすでに、男の背後に立っていた。影から影へ。魔力の残滓すら残さない絶対的な高速移動。

 手には何も持っていない。ただ、右手の人差し指と中指を揃え、男の延髄の隙間へ、正確に、そして無慈悲な速度で突き入れた。

 ゴッ、という鈍い音がして、1人目の動きがピタリと止まる。指先から流し込んだ魔力が中枢神経を焼き切り、悲鳴を上げる間もなくその命を奪い去った。


「ヒィッ!?」

「お、前……っ!」


 残る2人が状況を理解し、武器を構えるよりも早く、アレンの身体は沈み込み、2人目の懐に潜り込んでいた。

 下から顎の関節を掌底で打ち抜き、脳を激しく揺さぶる。そこから流れるような動作で首を捻り、頸椎を粉砕した。ボキリという湿った音とともに、2人目の体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、二度と動かなくなった。

 同時に、空いた左手で3人目の胸ぐらを掴み、そのまま背後のレンガ壁へと叩きつけた。

 ドンッ、とくぐもった音が響く。

 壁に押し付けられた3人目の男は、取り落とした短剣の音にも反応できず、ただ恐怖で目を剥いてこちらを見ていた。引きつった喉からは、言葉にならない空気だけが漏れ出ている。


「……お前、まさか……本当に……!」


 男の喉からようやく絞り出された掠れ声。

 アレンは何も答えなかった。言い訳も、気取った決め台詞も不要だ。静かに指先に力を込め、男の頸動脈と気管を同時に圧し潰す。数秒の痙攣の後、男は事切れ、力なく崩れ落ちた。


 アレンがゆっくりと手を離す。路地裏には、再び夕暮れの静寂が戻っていた。

 男たちがこちらを認識し、すべてが終わるまで、まばたきを数回するほどの時間しか経っていない。誰も悲鳴を上げる隙さえなかった。


 石畳の上には、3つの物言わぬ死体が転がっている。

 彼らを生かしておけば、必ずまた日常を脅かしに来る。だからこそ確実に命を絶った。だが、このまま放置するわけにはいかない。街で殺人事件が起きれば衛兵が動き、いずれ学園にも波風が立つ。

 平和なスローライフを守るためには、波風の種は根こそぎ摘み取らなければならない。


 アレンは懐からハンカチを取り出し、指先を丁寧に拭った。血は一滴も流れていないが、念のためだ。汚れのないことを確認し、ハンカチを自分のポケットに戻す。

 そして、足元にある影へと意識を向けた。


 音もなく、アレンの影がどす黒い水溜まりのように広がり始めた。本来なら光の差す方向にしか伸びないはずの影が、まるで意思を持つ生き物のように石畳を這い、転がっている3つの死体と、落ちた武器を包み込んでいく。まるで底なしの沼に沈むように、外套に包まれた男たちの体が音もなく影の中へと吸い込まれていった。断末魔の残響すら、冷たい影の底へと呑み込まれる。

 数秒後、広がりきった影が再びアレンの足元へと収束する。

 後には何も残っていなかった。血の一滴、布切れ一つさえも。彼らがこの街に存在した痕跡は、文字通り跡形もなく消え去った。


 アレンは足元に下ろしていた菓子の紙袋を、砂埃を払ってから静かに拾い上げた。


 路地裏を抜けて大通りに戻ると、先ほどまでの張り詰めた空気は嘘のように消え去り、再び穏やかな夕暮れの風が頬を撫でた。

 空を見上げると、一番星が薄暗い空に瞬き始めている。

 アレンは、しがない一介の平凡な教師だ。

 明日から始まる、第7特別クラスの生徒たちとの生活。そして、これから出会うであろう同僚たち。


「あ、そうだ」


 アレンはふと口元を綻ばせ、焼き菓子の入った袋を抱え直した。


「明日の朝礼の挨拶、まだ考えていなかったな。早く帰って準備しよう」


 背筋を伸ばし、大股で歩く。

 アレンの影が、石畳の上に長く伸びていった。

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