第26話(全36話) ストゥヌールアルチュールの死
昼食後のアルチュールとの甘美な時間を過ごしたあと、あたしはそっと寝台を抜け出した。カリーヌに手伝ってもらって髪を整え、服を着る。
「もう帰るのか?」
アルチュールが寝具の中から声をかけてきた。
「ええ。明日は来られないわ」
あたしは鏡に映る自分の姿を確認しながら答えた。今日明日とポロフレに来ているイの国の外交官、ジェラール将軍と約束がある。
「一人で何か食べに行って。でもうちに帰ってきてね。他の女の所に泊まっちゃいやよ」
「そんなものいないさ」
そう言って、アルチュールは寝返りを打ち、あたしが視界に入らないようにした。
身支度を終え、カリーヌに馬車を呼んでもらっている間、こちらに背を向けているアルチュールに近づき、その肩口にそっと唇をつけた。そして少し強く吸う。アルチュールは驚いた声をあげた。
「どうしたんだ?」
あたしはいたずらっぽく微笑んだ。
「浮気封じのおまじないよ」
あたしはそう言って、部屋をあとにした。
ジェラール将軍の借りている邸宅は王都の喧騒から少し離れたところにある。アルチュールの所から自宅に戻り、仕事用の化粧と着替えを終え、将軍の元へ向かった。将軍と二人で軽い食事を済ませたあと、彼の立派な馬車に乗って夜の賑わう劇場へ向かった。舞台から見て右側の桟敷席に案内される。きらびやかな内装の劇場内では、甘ったるい音楽が鳴り、甘ったるいクリシェなメロドラマが舞台上で繰り広げられている。
芝居が始まる前、幕間、そして終演後と、あたしたちはいろんな人の所へ挨拶に行き、またあたしたちの桟敷席にもいろんな人が挨拶に来た。劇場というのは芝居を観たり、音楽を聞いたりするだけの場所じゃない。社交の空間なのだ。
将軍は人の名前を覚えるのが苦手なので、あたしがフォローした。ワの国の社交界の主要なメンバーはほぼ頭の中に入っている。今夜もうまく将軍のパートナー役をこなしたと思う。
ふと視線をめぐらせた先でナナを見つけた。今日の彼女の連れはなんとか騎士団の団長だという女性だった。ナナはいつものようにその騎士団長の少し後ろに控えめに立っていた。
芝居の幕が上がると人の出入りが途絶える。しかし観客たちの全員が熱心に芝居に見入っている、というわけではない。おそらく芝居を見ているのは半数にも満たないだろう。多くの観客が、他の観客の様子や装い、同行者を観察している。
あたしたちクリティザンヌも注目されている。向けられる視線に気付けば、優雅に微笑み、軽く手を振ったりする。
ナナなんか劇場に足を運ぶと、ファンから送られた花束で桟敷席が埋まってしまう。今日もまた、香しい花々に囲まれて座っている。むしろ今日は、ナナよりも騎士団長の方がうれしそうだ。
そう、あたしたちにはファンがいる。あたしたちを描いた絵も売られている。劇場の主役は舞台で芝居をしている俳優たちではなく、あたしたちクリティザンヌだというのもポロフレの一面の真実だろう。
桟敷席の中で将軍があたしの手を握ってきた。こいつは考え事をするとき、人の手をまさぐる癖がある。舞台なんてまるで見ていない。あたしが驚いたふりをしてそちらに目を向けても、将軍はあたしを見つめたりなんかしやしない。無意識のうちに人の手を握り、無意識のうちにいやらしい手つきで人の手指をまさぐるのだ。別に当人は興奮なんてしていないのだと思う。
舞台が終わったあと、将軍の邸宅で寝る前に夜食をつまんだ。
夜食のあと、寝台の傍らに腰を下ろし、将軍と将棋をした。将軍は堅実に歩兵を上げてくる。あたしは大駒の効きを生かし、騎兵を使って速攻で将軍に勝った。将軍はひどく驚いていた。
「速いな。本陣を囮にしての進撃か。君とは戦場で会いたくはないな」
そう言って愉快そうに笑った。
そのあと将軍から興味深い話を聞いた。このワの国の老王は、すでに娘のオロール王女の言いなりになっているらしい。自分の国のことを外国の人に聞くのもおかしな話だけど、外交官の情報収集というのはそういうものなのだろう。
長らく王国の宰相をつとめてきたオフィウクス公の失脚も時間の問題だという。少女の時代をようやく抜け出したぐらいの若い王女が、宮廷から宰相派を一人、また一人と追い出して、いまや宰相は宮廷内で完全に孤立しているらしい。そのあとに座るのは従兄のアドリアン王子か、大貴族のキグヌス大公か、王女のきまぐれ次第ということだ。
「王女さまは何がしたのかしら?」
あたしが問いかけると、将軍は、
「女心はわからないな」
とはぐらかすように言った。
「ただ、王女は有り余る能力を持て余しているんだ。誰も止めてくれる人がいないんだろう。愛人と見られているオリビエ卿も、王女の言いなりになってるみたいだな」
そんな話をしながら、将軍は眠りに落ちた。
将軍の話を聞いて、あたしは静かに安堵した。王女が宮廷内の権力闘争に没頭しているのなら、しばらくはアルチュールに手を出すことはないだろう。あたしはその安心感と心地よい疲労感に身を委ね、静かに目を閉じた。
つぎの日は家へ帰らず、そのままジェラール将軍の邸宅で過ごした。将軍の広い屋敷には何人もの使用人が働いている。その中には見知った顔もあった。バスチアンや、昔宰相アルチュールのところでアトゥル=アトゥルの使い方を教えたメイドがいた。もちろん、むこうはあたしのことなんて知らない。ポロフレという街は広いようでいて、使用人の世界は案外狭いものなのかもしれないと感じた。
夕食を済ませた後、今日はあたしの提案で将軍をエレオノール嬢のサロンに連れて行った。
今回もエレオノール嬢のサロンは「知的」なサロンとして有名だ。学者がいたり、詩人や画家がいたり、新聞記者がいたり、才能のある人がここに集まっている。俗な噂話は入り込む余地がない。
まあ、あたしにとって大半の話は退屈だ。難解な哲学、最新の化学などなど。しかしそれを顔に出さないエレガンスは身につけている。相手の目を見つめて、「とても素晴らしいお話でしたわ」と手を優しく握りながら心にもないことを言う特殊技能を会得した。
今夜はアントワーヌ卿が講演していた。卿は軍事理論家で、軍務経験はないみたいだけど、なかなか鋭いことを言う。うちの王国の軍人たちは彼を、現場を知らない夢想家だとバカにしているけど。
「であるからして、今日の軍隊は肥大化しました。戦略家はまず、この軍隊をどのようにして食べさせていくのかを考えなくてはなりません」
卿の声が、静まり返ったサロンに響く。
「補給基地は一つではいけません。点で考えてはいけないのです。策源地として面で考えなくてはならないのです」
会場は静かだが、真剣に聞いてる人は少ない。
「策源地の端と端、そして作戦中の部隊の作る三角形、この三角形の三つの角度が大切なのです」
卿は熱を帯びた目で、空中を指し示す。
「補給線が断たれれば、戦闘は継続できません。ということはつまり、補給線を断てば、戦闘することなく相手を降伏させることができるのです」
要するにアレだ。相手の補給線を断つように機動せよってやつだ。相変わらずアントワーヌ卿の分析は鋭い。常備軍になって、軍隊の規模が大きくなったら、その分運用が難しくなったようだ。
あたしもこういうことに関心がないわけではないんだけれど、あんまり興味があるそぶりを見せるのは慎みが足りないように思われるので控えている。クリティザンヌとしての役割を演じないと。
隣にいるジェラール将軍に目を向けると、いたく感心している。子どものように目を輝かせ、アントワーヌ卿の話に聞き入っている。連れてきて正解だったかな。
周りは……、そうだな。あまり理解して聞いている人は多くないみたい。特に女性たちは目に見えて退屈している。あちこちで欠伸を必死に堪えているご婦人がいた。こらこら、エレガンスが足りないよ。
講演後、あたしは将軍を卿に紹介した。
「こんばんわ、アントワーヌ卿。本日も大変興味深いお話でしたわ」
あたしは優雅な足取りで卿に近づき、礼儀正しい笑顔を向けた。
「こんばんわ、ジュヌヴィエーブ嬢。いつも熱心に聞いていただいてありがとうございます。ですが、軍隊の話など、ご婦人には退屈ではないかと、いつも思っております」
アントワーヌ卿はすこし頬を赤らめ、落ち着かない様子で視線を泳がせた。この人はいつまでたっても若い女性に話かけられることに慣れないようだ。あたしはそんなに若くないけどな。
「そんなことはありませんわ。アントワーヌ卿の分析はいつも鮮やかで、感心いたしております」
そう言いながら、あたしはジェラール将軍に目をやった。将軍はまだ興奮が冷めていないようだった。
「アントワーヌ卿、紹介しますわ。こちらはイの国のジェラール将軍です」
「はじめまして、アントワーヌ卿」
将軍は熱意のこもった眼差しで卿に手を差し出した。卿は将軍の手を握り返し、少し緊張した様子で答えた。
「はじめまして、ジェラール将軍。ご活躍はかねてより伺っております。一度お会いしたいと思っていました。戦場で数々の武勲をおたてになった将軍には、私の机上の空論など、さぞかし的外れにお感じになられたのではないでしょうか」
相変わらず自己評価の低いお人だ。あたしの見る限り、貴方はいつの時代でも軍事理論の先端を走っているよ。
「いえいえ、とんでもありません。はじめてお話を聞かせていただきましたが、感服いたしました。いままで戦場で漠然と感じていたことが明確な理論として体系化されており、さらに多くの新たな知見が含まれていて……」
将軍の口から、まるで堰を切ったかのように言葉があふれ出した。よっぽど面白かったんだな。二人は周りの視線も気にせず、熱心に議論をはじめた。
ふと周りを見渡すと、アンナがこちらに近づいてくるのが視界に入った。今日の彼女のパートナーはダックだった。湖の南岸、チの国の湖岸地方を故郷とする人型のアヒル種族。アンナは一六〇センチぐらいだから、一五〇センチぐらいかな。厳めしい軍服に身を包んでいる。
「こんばんわ、ジジ」
「こんばんわ、アンナ」
アンナはあたしに簡単な挨拶だけして、会話に夢中になっている二人の間に、すっと巧みに割って入った。
「お話の最中、大変申し訳ございません。こちら、ダック自治領のスクルプトル大公でございます。アントワーヌ卿のお話にいたく感銘を受けまして、ぜひ一言ご挨拶差し上げたい、と申しております」
「クワックワッ」
大公が甲高い声で鳴き、恭しくお辞儀をした。
「大変示唆に富むお話、ありがとうございます、と申しております」
アンナがダックの言葉をよどみなく通訳している。スゲー。ダックは他の言語を習得できるけど、発音がね。聞き取ることはできるけど、話すことはできない。クリティザンヌには語学が必要だというけど、まさかダック語まで身につけているとは。そう言えば、彼女、チの国で長く暮らしていたって言ってたっけ。
「クワッ、クワワッ、クワ?」
「卿の御高説では、湿地帯は補給の面で不利だと申しておりましたが、我がダック兵からなる特殊部隊を編成するというのは、いかがなものでしょうか? と申しておいでです」
「ほう、ダック部隊。それは非常に興味深いお話ですね……」
アントワーヌ卿の目が好奇心に輝いた。将軍の方も似たようなものだ。
スクルプトル大公はすぐに仲間入りしたようだ。男の子三人が仲良く趣味のお話を早口で語り合っている。アンナは通訳として巻き込まれて、大変そうだ。
アイリーンがいた。彼女はあたしを見つけると、手招きして、他の客から少し離れた部屋の隅へと連れていった。
「ジジ、聞いた? 勇者さまのこと」
「なんのこと?」
魔王を倒した勇者のことはまだ断片的な噂しか聞いていない。黄色いマフラーをしているとか、メンバーカラーとかそういうのだけ。
「勇者さまって、エルフしかお愛しにならない方らしいわよ」
アイリーンは、こういう類のゴシップにはやたらと詳しい。さすが大女優、優秀な脚本家でも抱えているんだろう。
ところで、勇者っていうのは魔王を倒すような偉業を成しとげたパーティ全員に与えられる称号のようなものなんだけど、世間ではそのパーティのリーダーの戦士を指すことが多い。アイリーンもそういうつもりで言っているのだろう。
「ジジ、貴方チャンスよ」
彼女の情報によると、その勇者は幼い頃、エルフの冒険者に助けられたのがきっかけで冒険者になったらしい。その冒険者の一行にはトールマンの戦士の男がいて、そのエルフと良い仲だったとか。昔からトールマン・戦士・男とエルフの女がくっつく物語は数多い。一番古いと言われている吟遊詩人の歌からしてそうだ。実にクリシェなパーティだな。
「でもね、その勇者様のパーティには、なぜかエルフが居ついてくれなくて、今ではエルフと見れば手あたり次第らしいのよ」
当たり前だ。そんな下心丸見えなパーティに入りたがるエルフなんかいねーよ。それにしてもそんな性癖を植え付けたそのエルフは、いったい何者なんだろう?
「だから、貴方チャンスよ」
アイリーンは目を輝かせて繰り返す。この状況を楽しんでいるようだ。
「私も、お芝居で使った付け耳で、迫ってみようかしら」
そんなことを言って悪戯っぽく笑っていると、アの国の王太子が現れた。今日の服装はこの前会った時よりはちょっとましになったかな。
「王太子さま、先日はごちそうさまでした」
王太子とアイリーンに挨拶をして、二人を邪魔しないようにその場を離れた。
アントワーヌ卿とジェラール将軍、そしてスクルプトル大公は遅くまで熱心に話し合っていた。帰りの馬車の中でもジェラール将軍はそのことばかりを話していた。よっぽど楽しかったんだろう。長年探し求めていた同好の士をようやく見つけたっていう興奮の仕方だった。
その夜もそのまま将軍の邸宅に泊まることになった。
真夜中を過ぎたころ、突然カリーヌが二人の寝ている部屋に飛び込んできた。息を切らしている。エルフは夜目がきく。瞳が光を反射している。泣いているのがわかった。
「ジジさま、大変です。アルチュールさまが!」
ワの国の王都ポロフレでは、酔っ払い同士の喧嘩など日常茶飯事だった。それで死人が出ることもたいして珍しいことではなかった。
王都には様々な者たちが暮らしている。そして様々な者たちがあとからあとから押し寄せてくる。雑多な、それが王都のあり様だった。
食うために、あるいはそれ以外の目的をもって王都にやってきた者たちが、その目的のものを手に入れるのは稀なことだった。
その目的のものの、安易な代替物が酒だった。王都の、城壁近くの場末の酒場には心に傷を持つものが集まり、すぐに口論が始まり、そしてそれが殴り合いになるのが毎夜のことだった。
王都の衛兵であるリュカは、雨の中で横たわる死体を見つめていた。「ちっ、なにもこんな雨の日に死んでくれなくてもいいのに」と心の中で毒づく。
こんな夜中、こんな雨の中……。俺の迷惑も考えてもらいたいものだ。
「酔っ払い同士の喧嘩だ。片付けておけ」
リュカはそう二人の後輩に命じると、宿舎に帰る前に、どこかで強い酒を飲んで、身体を温めなくてはいけないことに考えを向けた。風邪を引いてしまう。
「よりにもよってこんな雨の日に」
今度の愚痴ははっきりと口から洩れた。後輩の一人がこちらを向く。リュカは何でもないと手を振り、立ち去って行った。
後輩たちは、リュカが立ち去るのを確認すると、こちらもこんな雨の夜に仕事をするのは嫌なのだろう。片付けを後回しにして、アルチュールだったものを放置して去って行った。
場末の路地にアルチュールの死体が転がっている。このあたりではこのような殺人事件は珍しくないのだろう。雨の中、誰もいない。ただ、雨水が石畳をうちつける音だけが響いている。
そこへ一台の馬車が水飛沫をあげて止まった。御者がいなかったら、ジジは自分で馬に鞭打ってきたかもしれない。御者の隣には案内役のカリーヌが雨除けの長いマントを頭からかぶって座っている。
馬車が完全に止まるのを待つことなく、ジジは赤いドレスの裾をつかみ、路地へ飛び出した。彼女のドレスはシンプルな仕立てだが、上質な生地を使っている。急いで身に着けたからだろうか、着崩れている。それが雨に濡れてその乱れはさらにひどくなり、裾は跳ね上げられた泥水で汚れていく。
濡れた石畳に横たわるアルチュールの姿が目に飛び込んだ瞬間、ジジの足が止まった。心臓の鼓動が止まったような気がした。世界から色も音も消え失せたかのような感覚が襲ってくる。
震える足に力をこめ、引きずるようにして近づく。寝るときも外さない銀のブレスレットとアンクレットが、雨の夜でわずかな光をとらえ、時折きらめく。カリーヌがランタンを持って、あとに続く。
アルチュールの傍らにようやくたどり着くと、ジジの身体から力が抜けた。まるで崩れ落ちるようにして、アルチュールに覆いかぶさる。雨に打たれた彼の顔は、生気を失い、青ざめていた。身体は冷たい雨に濡れ、触れると氷のように冷たい。その冷たさと水分がジジの髪とドレスに染みこんでくる。
「アルチュール……」
絞り出すようなジジの声は激しい雨音にかき消された。冷たい雨水は容赦なくジジの体温を奪い、彼女の身体を芯から冷やしていく。
遠くでカリーヌの声が聞こえる。いつの間にか姿を消した彼女は、死体を片付けに来た者たちに酒代を渡して、しばらくこのままにしてほしいと頼んでいる。
ジジは、冷たく濡れたアルチュールの胸に顔をうずめた。いつも感じていた彼の温もりは消え去っていた。血の匂いがする冷たい身体を抱きしめ、ジジは冷たい雨の中、抑えきれない嗚咽を漏らし続けた。




