第27話(全36話) ストゥヌールへの接吻
暗く静かな裏通りに降り続く雨。人通りのない真夜中、雨が地面を叩く音だけが響いている。
この南門広場近くの迷路のように入り組んだ路地も例外ではなく、絶え間なく降り続く雨は、小さな川となって石畳の街路を流れていく。
分厚い雨雲が空を覆い、月明りは完全に遮断されていた。周囲の建物から洩れる明かりも、闇に吸い込まれていくようだ。あたりを照らすのはランタンのかぼそい光だけ。その光が二人の影を写し出す。
ジジは冷たい石畳の上に、力なく両膝をついて座り込み、動かなくなったアルチュールを両腕に抱きしめていた。彼の胸からは血が流れ、それを雨が洗い流していく。
アルチュールを抱きしるジジの喉からは声にならない嗚咽がもれ、瞳からはとめどなく涙を流れ続けている。降り注ぐ雨粒が、彼女のまとう絹の深紅のドレスに染みを作り、ランタンの光に鈍い光を放つ。足首では銀のアンクレットがきらめいている。こんな所には場違いの華やかな装いで、ジジは泣きじゃくっている。
「どうして?」
絞り出すような声で、ジジは何度も同じ言葉を繰り返す。
「何が悪かったの?」
問いかけるように何度も。
今回は魔王にならなかったじゃない。今回はエラくなって王女に殺されもしなかったじゃない。それなのに、
「どうして?」
ジジはどうしてこんなことになったのかわからなかった。
今回は魔王に近づけさせなかった。今回は王女に近づけさせなかった。危険なものを彼の周りからすべて遠ざけたと思ってきた。
「何が悪かったの?」
ジジはアルチュールが望むものをすべて与えてきたつもりだった。穏やかな、幸せな日々を。それなのに、
「どうして?」
ジジはなぜ、アルチュールがこんな所で死んでしまうのかわからなかった。
「何が悪かったの?」
「なぜアルチュールが、こんな所で死んでいるんだ」
冷たい声が不意にあたしの背後から聞こえた。
大きな声ではないが、この雨の中でもはっきりと聞こえる。ベルナールだ。全く気配を感じなかった。そこに誰かがいるなど、微塵も思わなかった。ゆっくりと振り返り、ようやくその姿をとらえた。
ベルナールはいつもと変わらないくすんだ緑灰色のローブを着ている。フードを深く被っていて、顔はほとんど見えない。けど、その眼光はあたしの心の奥底まで見透かすように、そして厳しく糾弾するように射抜いていた。彼は現れるたびに生気を失っていくようで、今の顔はまるで幽鬼のようだ。
あたしはアルチュールの冷たい遺骸を抱きしめたまま、背後に立つ土気色したベルナールの顔を見上げた。彼の鋭い視線からは逃れることができない。
「なぜ、おまえはアルチュールを鳥籠に閉じ込めるような真似をしたんだ」
静かな、抑揚のない声。彼の言葉が氷の短剣のようにあたしの心をえぐる。
「おまえのせいでアルチュールは飛び立つことができなかった」
泣くことしかできないあたしに、ベルナールは責めるようなことばかりを言う。あたしだってアルチュールが大切だったのよ。
「人っていうのはな、出会い、他人とのつながりでできているんだ。おまえがアルチュールを閉じ込めていたせいで、アルチュールは出会いに恵まれなかった」
ベルナールの詰問は続く。ごめんなさい。声にならない謝罪が胸の中で渦巻く。君もアルチュールを愛していたのに。大切な人を、譲った相手が大切に扱わなきゃ怒るよね。怒って当然だよね。
「他人との出会いがなければ、アルチュールほどの者でも、こんな路地裏の、つまらない喧嘩沙汰で命を落とすことになるんだ」
ベルナールが吐き捨てるように言う。その彼の声にはやり場のない怒りと、友を悼む感情が滲んでいた。
アルチュールはどう思っていたんだろう。あたしは彼を大切にしてきたつもりだけど、彼はあたしといるときは、いつも穏やかに微笑んでいたけど、本当はどう思っていたんだろう? そう考えるとまた涙があふれてきた。
ベルナールは言いたいことだけ言って黙り込んだ。その静けさがあたしの心をまた締め付けていく。
「人は出会いによってつくられていくんだ」
しばらくの沈黙のあと、ベルナールが再び口を開いた。その声は先ほどまでの鋭く冷たい響きではなく、いくらか和らいだ、穏やかなものだった。
「人は他人と出会い、関わり合うことで、何者かになっていくんだ。カミーユがああいう人間になったのも、他人とのつながりの中でだ。レティシアもそうだ。最初から俺たちの知っているカミーユやレティシアなんかいなかった。すべて他人との出会いが作り上げていったものなんだ」
彼の言葉には教え諭すような響きが宿っていた。
「おまえだってそうだ、ジジ」
独り言のように語っていたベルナールが、あたしの方を向いた。その瞳には先ほどの厳しさは、もうなかった。。
「これで四周目だ。俺がおまえに会いに行った時から、アルチュールが魔王となって死んだ時から、四度目だ。あの時から、おまえも様々な出会いを経験し、人との関わりの中で変わってきたはずだ。そういうことなんだよ、ジジ」
ベルナールが言葉を続ける。その声は雨音の中でも不思議とはっきりと聞こえた。
「アルチュールほどの才能があったとしても、出会いがなければ飛び立つことはできない」
ベルナールは、雨に打たれるアルチュールに目を向けた。その瞳には深い哀惜の念がこもっていた。また独り言のように呟く。
「アルチュールはどこまでも飛んでいける人間だった。カミーユはそれを見抜いていた。奴の目は確かだった。だがそれも出会いがあったからだ。望ましい出会いがなかったら、誰でもこんな路地裏で、誰にも知られずに死んでいく可能性があるんだ」
そしてベルナールがまた、あたしに目を向ける。
「おまえがアルチュールを独占しようとしたからこうなったんだ。今回はおまえの責任だよ、ジジ」
ベルナールの言葉があたしの心に深く突き刺さる。
そう、あたしが悪いんだ。こんな結末になるはずじゃなかった。どうしてこんなことになってしまったんだろう?
独占欲? ううん、あたしはアルチュールには自由でいて欲しかったんだ。あたしはただ、アルチュールみたいな優しい人が悲惨で理不尽な最後を迎えてほしくなかっただけなんだ。
それなのに何度繰り返してもアルチュールは不幸な終わり方をしてしまう。あたしはそれを防ぎたかった。それだけなのに……。こんな終わり方をしてしまうなんて……。後悔とどうしようもない自己嫌悪で胸が張り裂けそうだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
あたしはとめどなくあふれる涙をぬぐうこともせず、ただ泣きながら謝り続けた。腕の中のアルチュールに。そして自分の気持ちを抑え込んでアルチュールを救う機会を、何度もあたしに与えてくれたベルナールに。あたしはベルナールが、彼なりのやり方でアルチュールを愛していたことを理解している。あたしに彼を託してくれたことも。
それなのに、あたしはまた失敗してしまった。それも最悪の形で。ベルナールの言う通り、鳥籠に閉じ込めておいちゃいけない人を、無理やり閉じ込めて殺してしまったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝って済む問題じゃないのはわかっている。いや、謝っているのではなく、自分の不甲斐なさを悔やんでいんだ。どうしてあたしはうまくやれないんだろう?
「またやり直してこい」
ベルナールは冷たく宣告するように言った。かすれた声だった。最初、あたしは彼が何を言っているのかわからなかった。徐々にあたしの頭が、彼の言葉をかみ砕いていった。
「やり直すことができるの!」
自分でもわからない所から声が出た。また生きているアルチュールに会える! それだけでも死んでもいい気分になった。
「そう言ったんだ。相変わらず話を聞かない奴だな」
ベルナールは段々と生気を失っていく。会うたびにやつれていく。でもその言葉は一緒に冒険していたころのような温かさがあった。
あたしはアルチュールのためだったら何でもする。そう決めたんだ。
「どうすればいいの?」
あたしは濡れた袖で乱暴に涙をぬぐい、ベルナールに問いかけた。あたしの顔は化粧が雨と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたと思う。笑っちゃうような面相だろう。あるいは逃げ出してしまうようなものかも。そんな顔をベルナールに向けても、彼は全く表情を変えずに、あたしを見つめている。
「おまえのすることは簡単だ。いつもの通り、戻りたい時を強く念じながら、アルチュールに口づけしろ。それだけでいい」
ベルナールの声はいつもと変わらず冷淡だった。でもその声は会うたびに老いて、潤いを失っていく。
「わかったわ」
あたしはまたアルチュールの上体を強く抱きしめた。冷たい。昨日までは彼の温かさを全身で感じることができたのに。また感じることができるかな。そんなことを考えるとまた涙があふれてくる。いけない。気をしっかり持たないと。始めからやり直す。そう決めた。
震える指先でアルチュールの冷たい頬に触れる。死の冷たさだ。しかし、この冷たさの向こうに、あの温かい笑顔が待っている。そう思うだけで胸が張り裂けそうだった。
「今度こそ、あたしが君を守るから」
そうささやき、あたしは震える唇を、アルチュールの唇に重ねた。
その瞬間、二人を淡い、柔らかな光が包みこんだ。薄れゆく意識の中、あたしの視界の片隅で、呪文を唱えるベルナールが雨の降りしきる石畳に、静かに人形のように倒れこむ姿が見えた。その光景はあたしの網膜に消えることのない残像として焼き付いた。




