第63話:【50kmライド】
西陣のブックカフェ『アルカディア』。朝の光が差し込む中、朝食のプレートを見た結愛は、何の躊躇いもなくフォークを手に取っていた。
そこに盛られていたのは、
朝から食べるボリューム満点のナポリタンとその上に鎮座するパリッとした大きなウインナー。
さらに香ばしい厚切りベーコンがこれでもかとマシマシでトッピングされた特製ペペロンチーノだった。
かつてはドーム内の管理された低カロリー食やプレーンな合成栄養剤に慣れていた彼女が、今やこんな重厚な高カロリーメニューをペロリと平らげられるようになっているのだから、人間の適応力とは恐ろしいものである。
美味しそうにフォークを動かす結愛の食べっぷりを眺めながら、山崎健矢は黒のドットで彩られた無個性さが個性であると言わんばかりの使い込まれた保冷ボトルPODWIN KOOLに水と氷を補充してポケットに塩分補給タブレットを補充しつつ、苦笑交じりにぼやいた。
「おいおい、そんなに綺麗に脂っこい炭水化物を胃袋に叩き込めるなんてな……。見てるこっちまで胃もたれしそうだ。まったく、こういう時ばかりは若さってやつが本気で羨ましくなるな」
「えへへ、朝からしっかり食べておかないと、今日のロングライドで途中で動けなくなっちゃいますからね!」
ケロッとした顔で笑う結愛の姿に、管理AIのイズミとシオンが揃って反応する。
「計算によれば、結愛ちゃんの基礎代謝および胃腸の消化吸収能力は、初期段階と比較して約140%に向上しております! 本日のライドに向けたエネルギー充填率は完璧です♪』
「マスターの「若さが羨ましい」という発言は、加齢による基礎代謝低下の現実から目を逸らすための防衛機制である可能性が98.4%。年は取りたくないですね」
「やかましい!データで余計な主観を補足する癖はどうにかならんのか?シオン。」
「残念ながらパーソナライズ機能の仕様なのでどうしようもできません。」
健矢がジロリと慇懃無礼かつ不敵な表情を浮かべるシオンをジト目で睨みつけ、結愛はヘルメットのあご紐をパチンと留めてスッと表情を引き締めた。
ここまでの教習を通じて、山の走り方、サイクリングロードの正しい使い方、そして一般道における複雑な交通法規や防衛運転の基本は、すでに結愛の体に深く沁みこんでいる。
基礎を固め、数々の試練と日頃の慣熟走行を乗り越えてきた彼女の胸には、いま新たな闘志が芽生えていた。
「健矢さん。私……そろそろ、もっと遠くへ行ってみたいんです。『100kmライド』って、いつか私にもできるようになりますか?」
100キロメートル。それは初心者にとって、ひとつの大きな壁であり、同時にサイクリストとしての世界を劇的に広げる魔法の数字だった。 結愛の真剣なまなざしを受け止めると、健矢はフッと満足げに口元を緩め、力強く頷いた。
「100kmか。いい目標だな。……確かに、自分の脚で100kmの距離を走り切れるようになると、見える景色が変わるし、世界が圧倒的に広がって最高に楽しくなる。その目標、俺も全力で支持して応援してやんよ。」
「本当ですか!?」
「あぁ。だがな........」
健矢はビシッと人差し指を立てて、ピリリと引き締まったトーンで釘をさした。
「いきなり100kmになんて飛びつけるわけがないだろ?まずは着実に、50kmの壁を突破して最長距離をしっかり、地道に伸ばしていくことだ。こういうのはな、少しずつステップアップを重ねていくのが一番の近道なんだよ」
「はいっ! まずは50kmですね!」
「よろしい。じゃあ、今日の教習コースを発表する」
健矢は西陣の南へと伸びるルートを指し示す。 「——枚方市駅跡地まで行って折り返し、世界規模なラーメンを喰ってこの店に戻ってくる。トータル約50kmの往復コースだ。行くぞ、結愛!」
白と天空色。西陣のショップを飛び出した二人のイタリアンバイクは、桂川サイクリングロードのなだらかな舗装路へと滑らかに合流した。
「おっ、いいペースだな、結愛。そのまま一定のケイデンスをキープしろ!」
後ろから飛ぶ健矢のゲキに応えながら、結愛はペダルを踏み込む。 これまでの教習で叩き込まれた数々の技術が、いまや無意識の反射として彼女の体を支えていた。
(思い出すんだ……今まで教わったことを全部、ここで形にするんだ!)
河川敷の直線道路では、シオンから教わった「風を味方につけるポジション取り」を意識し、無駄な力みを捨てて上体の力を抜く。
一般道との交差ポイントやサイクリングロードの合流地点に差し掛かると、イズミのナビゲートに従って周囲の安全を目視と気配でしっかりと確認し、防衛ポジションをキープしながらスムーズに減速・加速を行う。
「前方の歩行者よし、路肩の浮き砂なし、心拍数安定中。」 イズミがリアルタイムでデータを読み上げ、結愛の走りを完璧にバックアップしていく。
朝の冷たい川風が頬を叩くが、ペダルを回すごとに全身の血流が巡り、心地よい熱となって体全体に広がっていくのが分かる。
やがて、見覚えのある広大なエリアへと差し掛かった。 かつて「さくらであい館」がその雄大な姿を誇っていた背割堤のエリア。
今やその一帯は静まり返り、かつての賑わいの代わりに巨大なデータセンターの冷然とした白い壁面が河川敷の空にそびえ立っている。
「ここが……昔、たくさんの人が集まって、そして……」 結愛がふとペダルを緩めかけたその瞬間、健矢の鋭い声が飛んだ。
「おい、感傷に浸るのはそこまでだ! 止まるな、ペダル回せ!」
「は、はいっ!」
ハッと気を取り直した結愛は、再びしっかりと言葉を飲み込み、前を向く。 そして、淀川と木津川・宇治川を分かつ巨大なランドマーク——御幸橋へと差し掛かった。
かつての激動の歴史や、人々の別れの記憶を静かに見下ろすように、川面を渡る強い風が吹き抜ける。 結愛はその橋の上を、一切の迷いのないストロークで、力強く、そして美しくペダルを踏み込みながら一気に渡り切った。
「御幸橋、クリアしました……!」
「上出来だ! この調子で枚方市駅跡地の折り返し地点まで突っ切るぞ。50kmの壁をぶち抜く最初のステップ、しっかり完走するんだ!」
「おーーーっ!」
背割堤のデータセンター横を背にし、歴史の残滓が眠る淀川水系を南下していくチェレステの車体。
確かな技術と、日々の「食トレ」で鍛え上げられた強靭な胃袋、そして師弟の絆を胸に、結愛の50kmロングライドは、いよいよ中盤の折り返し地点へと向けて加速していくのだった。




