第61話:【米袋ダウンヒル】
三千院近くの米農家倉庫前で、背中に5kgの米袋をしっかりと括り付け、結愛はごくりと喉を鳴らした。目の前に広がるのは、国道367号線の果てしなく続くような長い下り坂だ。
愛車『MIRANO7(ミラノ・セブン)』のブラケットに添えていた手を恐る恐る外し、山崎健矢が厳しい口調で飛ばす指示に従って、ハンドルへとポジションを移す。
「いいか、下りの時は基本、下ハンを使うのがセオリーだ。あと、カミカゼダウンヒルを決めたい人間以外は、サドルの後ろ側を意識して座るのが基本となる。しっかり覚えとけ」
容赦ない鬼師匠の檄に、結愛は半泣きになりながらもドロップハンドルの下部を強く握りしめた。
現代の油圧ディスクブレーキの恩恵がどれほど大きかろうと、下り坂で過信すれば前腕の小さな筋肉たちはあっという間に悲鳴を上げる。ブレーキの制動力だけに頼っていると、恐ろしい物理法則に従って車体ごと前方に転倒する危険すらあり、こればかりはブレーキ性能だけでどうにかなるものではない。
「それとな、絶対に忘れちゃいけないのがコーナリングの鉄則だ。曲がってる最中にブレーキは引くなよ? 平坦以上にスっ転ぶリスクが増すからな。必ずストレートで十分に減速しとけ。あと、思い切り減速するときはケツを浮かせて腕を伸ばし、バイクを前に出して荷重移動でタイヤのグリップを稼ぎながら安全を確保しろ」
「わ、分かりました……! 直線で減速して、コーナーの時は……!」
「そうだ。ちなみに、コーナリングワークの基本も忘れてないだろうな? 突っ張る方の脚はどっちだ?」
「コーナー……外側の脚です!」
「よろしい。上出来だ! 行くぞ!」
健矢の合図とともに、3台のイタリアンバイクが重力に従って一斉に滑り出した。
前傾姿勢を取るとスピードが乗るというのはダウンヒルも平坦も変わらない。重い米袋を背負った結愛の車体は、ほんのわずかな傾斜でもみるみるうちに加速していく。
「下ハン、怖いです~~~っ! スピードが出すぎちゃいます~っ! 目線が低くなって.......地面がすぐ近くに見えるから........めっちゃ怖いんですけど……!」
「制動力不足でお前がスっ転んだり、空を飛ぶよりマシだ! 慣れろ!」
情けない悲鳴を上げながらも、結愛は教わったばかりの荷重移動を必死に思い出し、サドルの後ろ側に腰を引いてタイヤの接地感を確かめる。
ブレーキレバーを握る筋肉が疲弊し、指が痺れていくということは、一歩間違えれば己の命が終わるのと同義。カミカゼする気が毛頭なくても、ダウンヒルという環境はそれだけで十分すぎるほどリスキーな舞台だった。
恐怖と不器用さに支配され、あわあわと必死に格闘しながら下っていく結愛のすぐ傍らを、まるで別世界の空気感でクリアしていく影があった。
イズミである。
彼女の愛車には、パニアバッグへと左右に1袋ずつ、さらに天板に1袋の計30kg(10kg×3)もの米袋が重そうに積載されているというのに、その走りは驚くほど優雅で正確無比だった。
最先端のロボティクス技術と高性能AIの演算力によって、路面のわずかな傾斜や小石の有無をミリ単位で解析し、極めて冷徹かつ精微、余裕のある動きで全てのコーナーを完璧に処理していく。
「い、イズミちゃん、凄すぎます……! そんなに重いお米を積んでるのに、なんでそんなに平然と……!」
「ふふっ、結愛ちゃんもコアマッスルを意識して重心を低く保てば安定しますよ♪ イズミの演算データをトレースしてみてくださいね!」
「真似したくても怖くて無理ですぅぅ——っ!」
(ククッ......wゆるポタ詐欺する系の上級者サイクリストあるあるじゃねぇか、イズミ.....wビギナーは上級者に準じるお前のラインなんかマネできねぇんだよw)
圧倒的な実力差を見せつけるお目付け役AIと、背中の5kgの米袋に命運を預けたヒロイン。対照的な二人を率いながら、先頭を走る健矢はバックミラー越しに二人の挙動を鋭く監視しつつ、絶妙なペース配分で全体をコントロールしていく。
スピードオーバーによる落車や、路肩の浮き砂に足を取られるトラブルも、健矢の事前の警告と適切なルート選択によって完全に回避された。
冷や汗と緊張が全身を駆け巡った長い長い山岳の下り坂を抜け、ガードレールが途切れると、視界が一気に開ける。
轟音を立てていた木立の風が和らぎ、タイヤの下から伝わるアスファルトの感触が滑らかな平坦路へと切り替わった。
――そこは、見覚えのある白川通りの平坦エリアであった。
「ふぁぁぁ……着いた……生きて帰って来られました……!」
結愛は自転車を路肩に停めると、ガクガクと震える両手をハンドルから外し、その場にヘナヘナと崩れ落ちそうになった。背中の5kgの米袋が、これほど重く愛おしく感じられたことはない。
健矢は愛車から軽やかに足を下ろすと、疲労困憊の教習生を眺めて満足げに鼻を鳴らした。
「お疲れさん。初の実戦ダウンヒルにしては、まぁ及第点といったところだな。無事に生還できたこと自体を褒めてやろう」
「き、厳しすぎます……あんなの心臓がいくつあっても足りません……」
「ははは。だが、恐怖を乗り越えて自転車をコントロールし切ったその経験は、確実にお前の血肉になっているはずだ」
健矢はふっと柔らかい笑みを浮かべ、西陣とは反対の方向へと顎をしゃくった。
「さあ、よく頑張った。すり減った心身のエネルギーを補給するために、極上のラーメンという名の最高のご褒美をやろうじゃないか」
その言葉に、結愛の瞳がカッと輝きを取り戻す。
「ら、ラーメンですか……っ!?」
「そうだ。一乗寺エリアへと進路をとる。行くぞ、結愛!」
恐怖の米袋ダウンヒルを無事故で走り切り、新たな試練を乗り越えた教習生の一団は、京都が誇るラーメン激戦区・一乗寺へ向けて、再び軽快なペダリングを響かせて走り出すのだった。




