第60話【ビギナー向けヒルクライム講習?】
西陣のショップ前。朝の冷涼な空気が漂う中、本日のトレーニングに向けて異様な雰囲気が漂っていた。
「おい、イズミ。準備はいいか?」
「はい、マスター! リアキャリアとパニアバッグの換装、完璧に完了しております!」
なんと今回の山岳講習では、管理AIであるイズミが自ら愛車にリアキャリアとパニアバッグを装着し、さらにショップの米補充を兼ねた「リアル運搬任務」を負うことになっていた。なお、ショップの留守番と愛猫クロの世話は、シオンに任せてある。
ここで課された米袋の積載および負荷内訳は以下の通りであった。
イズミ:パニアバッグへ左右に1袋ずつ、さらに天板に1袋の計30kg(10kg×3)
山崎健矢:自身の背中に10kg
伏見結愛:自身の背中に5kg
「ちょっと待ってください! 待って待って! 私、まだヒルクライムの基本も怪しいのに、背中に5kgの米袋をいきなり背負うんですか……!?」
結愛は自身のバックパックにズシリと収まった5kgの米の重みに耐えかねて、早くもフラフラと膝を揺らしていた。
「とりあえずその米は元の位置に片しておけ。ってか何をビビッてるんだ?安心しろ、お前が.....いや、俺達が米袋を背負うのは行きの上りじゃない。下り(ダウンヒル)のバランス感覚を叩き込むときだけだ。」
「ええっ、でもでも!そんなの聞いてませんよ――っ!?」
「だいたい、忘れたのか? このルートはな、かつて俺が心拍120制限と米袋を背負いながら、己の限界を試すために疾走した由緒正しき『試練の山道』だ。明日使う米が無い!なんて事態じゃなければ、本来は緩い走りで景色を味わいつつヒルクライムとダウンヒルを優雅に楽しめるはずなんだがな……まぁ、状況証拠的に今日は特訓日和ってわけだな」
苦い顔をする結愛を尻目に、健矢はかつての記憶を懐かしむようにふと遠い目をした。そう、ここはあの時――西陣から大原の農地へと初めて米を求めて走り抜け、過酷な現実と絶景のコントラストに打ち震えた、あの思い出のルートそのものだった。
「あのときは、ただ必死にペダルを回して……大原の緑豊かな農地が見えたときの感動と、足が乳酸でパンパンになった絶望が同時に押し寄せてきたっけな……」
『マスター、感傷に浸っている場合ではございません。結愛氏の心拍数が早くも危険域に達しつつあります」』
シオンの冷静なツッコミを合図に、健矢はペダルに足をかけ、ニヤリと笑った。
「よし、出発するぞ! 上賀茂神社を抜けてゴルフ場、産業大学跡へ。二ノ瀬駅跡地手前から府道40号線に入り、野村交差点のFM集積所(旧コンビニ)で軽めの補給を行ったら、三千院近くの米農家さんの倉庫前まで一気に登り詰める! 二人とも、しっかりついてこい!」
上賀茂神社の厳かな鳥居を横目に走り抜け、道はやがて緑深い山岳エリアへとその表情を変えていく。
ゴルフ場横の勾配がじわじわと牙を剥き始める中、イズミの車体はシオンと同様に安定したケイデンスで坂をいなしていく。そのすぐ後ろを、結愛がゼェゼェと息を切らして食らいついていた。
「はぁ、はぁ……! 坂道、急すぎませんか……!? ペダルが、矢鱈.....重いん.....ですが……!?」
「馬鹿か、頭を使え、頭を。考えなしに......力任せに踏むから......こうなる。いいか? 効率よく登るための.......『山岳の極意』を......教えてやる、耳の穴をかっぽじって.....よく聞け!」
並走しながら、健矢が容赦なく実地指導のゲキを飛ばす。
1.早めにフロントをインナーへ入れる(足が死ぬ前にギアを軽くしろ)
2.最初に飛ばし過ぎない(序盤で脚を使い切ったらそこで試合終了だ)
3.視線を下げない(手元ばかり見ているとバランスを崩す、常に数メートル先の路面を見ろ)
4.シフトレバーを杖のように扱う(状況の変化に合わせてこまめにリズムを刻め)
5.登りは細く長くが基本(一気にクリアしようとせず、呼吸を一定に保て)
6.シフトアップダウンだけでなくダンシング(立ち漕ぎ)も適度に混ぜる(同じ筋肉ばかり酷使するな)
7.雨の後はいつも以上にスピードを控えること(路肩の浮き砂にタイヤを取られて簡単にスリップ落車するぞ)
「言われた通りに.....実践してみろ! 特に下り坂に入る前の心構えと、雨上がりの砂のトラップは命取りになるからな!」
産業大学跡前を通過し、二ノ瀬の静かな山あいを抜けて府道40号線へひたすら登りをこなしていく一行。
野村交差点のFM集積所(かつてのコンビニ跡地)で一度自転車を停め、冷たいドリンクで喉を潤し、羊羹でガッツリと使った糖質を補給しながら息を整える。
「ふぅ……! 足が、すでに......乳酸でパンパンです……」
ヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭う結愛に、健矢がミネラルウォーターを手渡す。
「まだ前半戦だ。ここから先、三千院の近くにあるいつもの米農家さんの倉庫前までのラストスパートが、この講習のメインディッシュだぞ」
息を整えた一団は再びペダルを踏み込み、深い杉木立の間を縫うようにしてついに目的地――三千院近傍の米農家倉庫前へと到着した。
そこには、かつて健矢が訪れたときと変わらない、静寂とノスタルジーと人の温かさが同居する、いつもの農村の風景が広がっていた。
「いつも美味しいお米をありがとうございます。」
「こちらこそ、私たちはこの生き方しか知りませんからね。」
『店舗運転予算よりクレジットの支払いを完了しました。』
無事に支払いと米の積み込み(補充)を完了し、いよいよ教習は最終局面、国道367号線の長い長い下り坂へと突入する。
「ここからが仕事としての本番だ、結愛。背中の5kgの米袋が、お前の体重バランスと重心移動を容赦なくテストする。決してオーバースピードになるな、重心を低く落とし、ブレーキは優しく確実に引け!」
「ひゃ、はいっ……! 落車だけは絶対に絶対にしません……っ!」
見渡す限りの緑の山々と、どこまでも続く長いアスファルトの傾斜。 イズミの安定した先導と、健矢の厳しくも的確な見守りのもと、米袋を背負ったビギナー少女の本格的な山岳ダウンヒル教習が、緊張感とともに華々しく幕を開けたのだった。




