第59話:【古(いにしえ)のマナー】
旧伏見桃山駅ガード下の名店『大中小』で、濃厚な背脂と極太麺が詰まった一杯を胃袋の限界まで叩き込み、二人のチェレステカラーは再び新堀川の沿道へと戻ってきた。
胃袋の拡張する限りにスープと麺を詰め込んだ結愛は、ペダルに足をかけながらもどこか苦しげな息をつく。そんな様子を察したように、先頭を走る山崎健矢が振り返り、ゆっくりと減速の合図を出した。
「おい、顔色が怪しいぞ。……いいか、食後の消化に全エネルギーを回している間は、全力で走らなくていい。むしろ、絶対に全力なんか出すな」
「はぁ、はぁ……お腹がいっぱいで、ペダルを踏むと胃の中でラーメンの津波が起きそうです……」
「そうだろ。人間の体ってのはよく出来ていてな、満腹のときは血液やエネルギーが胃腸に集中する。その状態で脳や筋肉に無理なリソースを割こうとすると、判断力が鈍るし安全面も盛大におろそかになる。だからこの区間は、のんびり消化を最優先に流すぞ」
健矢の言葉に、管理AIのシオンがすかさず医学的なデータを結愛の網膜VRに重ねる。
『こちら、シオンよりデータを補足。食後急激な運動を行うと、消化器系への血流が不足して腹痛やパフォーマンス低下を招くだけでなく、神経系の反応速度が低下します。安全確保の観点からも、低負荷での移動が極めて合理的です』
「シオンさん、ありがとうございます……。いまの私、全力を出したら確実に路上でリバースしちゃいます……」
「はっ、それはそれで大惨事だな」と笑いながら、健矢はペースをさらに落とし、信号でこまめに止まれる大通りを北上しながら、ふと真面目なトーンへと切り替えた。
「――体力や消化の話をしたついでに、昔からロードバイク界隈で言われている『マナー』の話をしておこうか」
「マナー、ですか?」
「そうだな……『ツキイチ』について教えておくか。」
ツキイチ。前を走る他人の後ろにぴったりと張り付き、空気抵抗(ドラフト効果)を完全に背負ってもらうことで、自分の体力を温存するテクニック。
集団走行では基本の技術とされるものだが、かつて、さくらであい館が地上に健在だった黄金期においては、これが深刻な問題としてネットでもリアルでも激しくやり玉に挙げられていた。
「さくらであい館のあたりがまだ賑やかだった頃、このツキイチを最悪の形で悪用する不心得者が後を絶たなかった」
健矢は苦虫を噛み潰したような顔でペダルを踏む。
「下半身の欲望に頭まで支配された情けない野郎どもが、見知らぬ女性ローディーを見つけると後ろにベッタリ張り付き、身の程もわきまえずにしつこくナンパしたり、走行中に背中から邪な視線を浴びせ続けたりした。それが原因で、せっかく自転車を楽しみに来いていた女性たちが恐怖を覚え、次々と引退を決めてロードバイクを降りていったんだ」
「そんな……! 一緒に楽しく走るためのスポーツなのに、そんな下心でストーカーみたいな真似をする人がいたんですか……!?」
結愛が信じられないといった様子で眉をひそめると、健矢は重々しくうなずいた。
「あぁ。他人の力を借りて楽をさせてもらったなら、前に出てローテーションを代わるとか、あるいは感謝の意思を示すのが本来の礼儀だ。それができないなら、無理せず一端休憩をして自分で体力を回復する方がよっぽど合理的だし、何より『紳士淑女のスポーツ』としての品位が保てる」
健矢の脳裏には、かつて「さくらであい館」が閉鎖されるその日、施設の前で愛車を手放すために長い行列に並んでいた女性たちの言葉が痛いほど蘇っていた。
――『寂しいけど……あのベタベタした視線とオサラバする理由ができたから、もう潮時よね』と、寂しそうに笑いながら愛車を処分していった女性たちを見送った、あの日の絶望的な光景を。
「……だからな、結愛。お前がもし将来、誰かの後ろについて楽をさせてもらうことがあったとしても、あるいは誰かがお前の後ろにつくことがあったとしても、決してその品位を忘れるなよ」
「はい……! 人の善意や空気を利用して迷惑をかけたり、下心で怖がらせたりするような最低な真似は、絶対にしません!」
「よろしい」
健矢はふっと険しい表情を緩め、新堀川の心地よい風の中へ視線を戻した。
古のマナー違反がもたらした苦い歴史と、スポーツとしての気高さ。満腹の胃袋に染み入るような教訓を胸に刻み込みながら、二人のイタリアンバイクは、西陣のカフェへと続く帰路の北上を静かに進んでいくのだった。




