第56話:【サイクリングロードと防衛運転】
市街地の喧騒を離れ、京都の街を南北に貫く河川敷のサイクリングロードへと足を踏み入れたイタリアンバイクを駆る二人。アスファルトの舗装路面は自動車の往来から完全に隔離され、吹き抜ける川風が心地よい。
ペダルを軽く回しながら、先頭を走る山崎健矢がふと後ろを振り返り、注意を促すように声を飛ばした。
「おい結愛、昔から勘違いしている奴が多かったから最初に釘を刺しておくが……このサイクリングロードってのは、自転車専用道路なんかじゃない。鴨川の遊歩道なんかと同じで、あくまで『自転車が走ってもいい歩道』って扱いなんだよ」
「歩道……なんですか?」
ペダルを踏みながら、結愛は左右の広々とした空間を見回した。
「でも、一般の歩道と違って道幅がすごく広いし、これなら歩行者も少ないし、そこまで気を張らなくても快適に走れそうな気もしますけど……」
「そういうこった」
健矢はハンドルから片手を外し、軽く肩を回しながら続ける。
「今の時代、街中の人間はほとんどカプセルカーか家の中で引きこもってやがるわけだが、俺ら専用道路というわけでもねぇんだ。実質的に自転車専用みたいな使い方が出来ちまってるわけだが……自動車やバイクに気を付けなくていいからって頭を空っぽにして走っていいわけじゃねぇんだぞ」
健矢のトーンに、少しだけピリッとした緊張感が混じる。
「お前、忘れたのか? 俺が昔、イタリアへ飛んで過酷なブルベに参加した話を。あの時の俺みたいに、今の世の中でもVR京都マラソンやVR大阪マラソンのコース撮影ランナーを務めているようなガチの連中や、毎年のようにホノルルへとマイルを貯めて走りに行くような狂気的なマラソン愛好家は、少ないながらもしっかり生き残っている。それに、運動量を死ぬほど必要とする牧羊犬や大型の日本犬をガチで飼育しているブリーダーや、寝ても覚めても犬のことしか考えてない愛犬家だって一定数ここを歩いてるんだ。犬に危害を与えないよう、細心の注意を払って走る必要がある」
ここまでは、一般的な交通安全の指導として至ってまっとうな内容だった。
しかし、健矢の口から次に飛び出した言葉に、結愛は思わず背筋を凍らせることになる。
「……だがな、犬だけじゃねぇ。俺は犬以上に、猫にも細心の注意を払って走っている。愛猫家たるもの、路上を生きるネコ様たちの平穏を脅かすことは絶対に許されない。お前も今日から、猫の安全を守る徹底的な『防衛運転』を身につけてもらうぞ、結愛」
「は、ハイ……!」
本来であれば、人間や子ども、あるいは大型の犬といった「一般常識の上で最優先で気を遣うべき対象」よりも、なぜか「猫」を上位に置いたときの健矢のすさまじい気迫と冷徹な眼光。あまりの圧力の強さに、結愛は生唾を飲み込み、ハンドルを握る手に思わず力が入った。
「いいか。猫の生息地を通過するときは、全力を出してタイムを競うような走りをしてはならん。万が一の飛び出しにも人間の動体視力が確実に対応できる範囲、さらにそこから少し余裕が出る程度まで速度を落とし、呼吸を整えて静かに通過しろ」
久世橋通りのガード下を通り過ぎたあたりから、健矢はあからさまにクランクの回転スピードを落とし、路肩の草むらや土手を舐め回すように観察しながら走り始めた。
「ここに、その……猫ちゃんが……?」
おそるおそる結愛が尋ねると、健矢はスッと右手を挙げて停止の合図を出した。
「ご明察の通りだ。ほら見ろ」
言われるがままに道路わきの土手の斜面を一瞥すると、陽だまりのなかで茶トラ猫と黒猫の二匹が、世の中の憂いをすべて忘れたように気持ちよさそうに丸くなって寛いでいた。
「わぁ……! ノラ猫さん、すごく気持ちよさそうですね。かわいい……!」
「だろ? 猫とはかくあるべきだ」
健矢は目を細めて満足げに頷いたが、すぐに表情を引き締め、再びペダルに足をかけ直した。
「癒やされてる場合じゃない。サイクリングロードの危険は動物だけじゃねぇんだよ。見通しの悪い交差点や、カーブのイン側に背の高い雑草がぼーぼーに生えて道幅を極端に狭めているような場所は、いつも以上に早く減速しろ」
「どうしてですか? 猫ちゃんが飛び出してくるから……ですか?」
「それだけじゃねぇ」
健矢は呆れたように鼻を鳴らした。
「お調子に乗ったガキんちょ……あるいは技術もないのに調子こいてスピードを出している未熟な乗り手が、藪の向こうからノーブレーキで突っ込んできたり、イン側のコーナーを大きくはみ出して突っ切ってくるケースがあるからだ。かなり珍しくはなったがな。しかし、あんな連中にラムアタックでもかまされたら、こっちのフレームが粉々になる。巻き込まれたくなどないだろう?」
「た、確かに……! もしあんなの激突されたら、私のMIRANO7が無残に曲がっちゃいます……!」
「そういうことだ。相手がルールを知っていようが知まいが、バカが突っ込んできたときに自分が被害を受けない位置をキープし、危険な死角はすべて予測して先手を打つ。それが、この開けたサイクリングロードにおける本当の『防衛運転』だ」
交通法規の厳格な遵守だけでなく、歩行者や動物に対する独特すぎる(しかし確かな愛に満ちた)配慮、そして物理的な死角や他の利用者のマナー違反を前提としたリスク管理。
ただがむしゃらにペダルを回すだけではない、シビアで奥深い「サイクリングロードの走り方」を、結愛は一つひとつ確実にその身体へと刻み込んでいくのだった。




