第55話:【道路交通法~給水編~】
七条堀川から鴨川沿いの遊歩道を一先ず桂川サイクリングロードの合流地点まで流す白とチェレステ、2台のイタリアンバイクが軽快なリズムで並走していく。
上空を飛ぶ撮影用の小型ドローンは幸いにも、わざわざシリコンバレーの狂人が打ち込んだ交通教習の認可コードを認識しているため不穏な動きはないが、健矢はときおり振り返り、結愛の様子を細かくチェックしていた。
無理をして心拍数が120(120ギリ)を超えそうになると、すっとスピードを緩めてペースを落とす。初心者の彼女を徹底的に思い遣った、鬼師匠なりの優しい配慮だった。
少し呼吸を整えた健矢は、ペダルを回す足をわずかに緩めると、フレームのボトルケージから手際よく『PODWIN KOOL』を抜き取り、走行したまま器用にハンドルのブレもなく視線も前方のままで喉を潤し、ボトルケージとボトルという機能美の極致を体現していた。
「ふぅ……。そういや、走行中の給水は交通違反だとか何とか抜かす、頭の固い面倒な奴らも昔は多かったっけな」
空いたボトルをケージに戻しながら、健矢はふと、交通ルールの盲点について語り出した。
AIが大多数の人間を生活管理する現代。街の移動はほとんどが自動運転のカプセルカーに委ねられ、人間自身は家から出ることすらない生活が当たり前になっている。
だが、その一世代前——スマートフォンを凝視しながらフラフラと自動車や自転車を走らせる横着な運転者が社会問題化し、警察による「わき見運転」の厳格な規制が始まった終末期があった。
その過渡期のトバッチリとして、「ボトルケージからボトルを抜き、前を向いたまま走行中に給水する行為すらも、視線や注意が逸れるから違反だ」と、法律の条文を歪めてケチをつける面倒な人間が、現実の路上やネット上には数多く存在したのだ。
「まぁ、実際のところはどうなんですか? 走ってる最中に水飲むのって、そんなに危ないことなんですか?」
結愛が不安そうに尋ねると、健矢は路肩の安全なスペースに自転車を寄せ、軽く停車した。
「道路交通法上の『わき見運転』や『安全運転義務違反』の定義は実に曖昧でな。安定走行不能な状態でペダルから片手を離したり、過度にボトルのほうを注視したりしていなければ直ちに違法とは言えないんだが……一部の自治体や、厳格すぎる警察官によっては、その解釈を拡大適用されて強引に違反切符を切られるリスクがゼロではなかったんだよ。特に昔の自転車乗りは、そういう理不尽との戦いでもあったわけだ」
「人間のブレが引き起こすバグあるあるですね。」
「違いねぇ。強要罪や暴行罪じみた難癖をつける馬鹿を取り締まる警官も、スマホ片手にふらふらと蛇行運転するママチャリを取り締まる警官も.....圧倒的に不足してたからな、頭数が。1年もすれば法律は形骸化していたよ。終末期、ここに極まれりって感じだったな。」
「これはひどい」
自転車を降り、ヘルメットのストラップを直しながら、健矢は急に表情を引き締めて喉を鳴らした。
「よし。ここらへんで一丁、『道路交通法におけるわき見運転の定義と、走行中給水の法的リスク』について徹底解説する! 心して刮目せよ!」
どこかひと昔前の、古臭い教養系YouTubeチャンネルの解説動画から丸パクリしてきたような仰々しい口調で、健矢は講義を始めた。
その瞬間、結愛の網膜VR上で、管理AIのシオンとイズミがそれぞれの解説データをホログラムとして一斉に立ち上げる。
『シオンです。補足データを提示します。現在においては、自動運転車のAIや道路脇に設置された監視カメラ、さらには上空の治安ドローンからもリアルタイムで運転者の挙動が解析され、万が一の危険挙動があれば1分以内に司法AIへ判定データが共有される仕組みとなっております』
『イズミからも補足。 現在は自動運転車や自転車全体の総数自体が大幅に減少しているため、個々の走行ログや給水時の微細なハンドルブレまで、極めて精微な判定が可能となり、公平な審判が下される社会システムが構築されているのですよ♪』
最新のAI管理社会のシビアすぎる現実を突きつけられ、結愛は「ひえっ……今の時代、下手にヨタついたら秒でAI裁判にかけられちゃうんですね……!」と冷や汗を流す。
「まぁ、俺の場合はだな……」
健矢は自分の自転車にまたがり直すと、ケロっとした顔で言った。
「走行中の水分補給なんて、ぶっちゃけ半年に1回くらいしかやらないけどな。基本はロングライドの途中でカフェに寄って補給する『ゆるポタ』メインだし、そもそも俺は省エネ体質っぽいから、流した汗の量の割に喉は大して渇かん」
「……ん?」
結愛は首をかしげ、横に控える管理AIにそっと話しかけた。
「あの、シオンさん。健矢さんの言う『ゆるポタ』って……もしかして、本当に文字通りのんびりしたお散歩ライドなんですか?」
シオンは無機質な声音のまま、即座に冷徹なデータを展開した。
『解説いたします、結愛氏。マスターの言う「ゆるポタ」の過去平均走行距離データを参照しますと……およそ150km。端的に申し上げますと、ここ西陣から兵庫県の神戸港までを自転車で往復する距離に相当します』
「ひ、ひゃく....ごじゅっキロ……!?」
結愛の目が飛び出さんばかりに見開かれる。
「それって全然ゆるくないじゃないですか!? 普通に殺人的な長距離鬼畜ライドじゃないですかっ!?」
『サイクリスト特有の、致命的な距離感覚のバグです』
シオンは淡々とトドメを刺した。
『脳内の距離計が完全に故障しているからこそ、マスターは世間一般の常識から乖離した変態として、色んな意味で各方面のネットや界隈でウケているのです』
「……何か言ったか、結愛?」
少し離れた場所で、健矢が怪訝そうに振り返る。
「い、いいえっ! 何も言ってません! 素敵なゆるポタですねって心の中で感動してましたーーっ!!」
真っ青になりながらブンブンと手を振る結愛の姿を横目に、シオンがホログラムの隅で小さく機械音の笑いを漏らす。サイクリストの恐るべき距離バグと、旧時代から続く交通ルールの理不尽さを胸に刻みつつ、二人の教習ライドはさらに京都の深いアスファルトへと続いていくのだった。




