第54話:【道路交通法~左折専用レーン編~】
西陣からペダルを漕ぎ進め、京都市内でも有数の巨大な交差点へと差し掛かった。上下線ともに複数車線がアスファルトの上を幾重にも走り、絶え間なく車が往来する——京都が誇る交通の大動脈、五条堀川の南行き交差点である。
「この先.....赤信号、だな……。結愛、早速問題だ。周囲の状況をよく見極めて、適切な場所で停車してみろ」
先頭を引っ張っていた山崎健矢がハンドルの手を上げ、ピタリと車道の左端に自転車を停めた。
後ろを走っていた結愛は、直前に教わった交通法規の記憶を脳内でフル回転させ、迷うことなく直進レーンの左側にぴったりと寄せて愛車『MIRANO 7(ミラノセブン)』を停止させた。
「……よし。完璧だ。ポジショニングの選択に一切の迷いがなかったのが良い。」
健矢は振り返ると、小さく頷いて見せた。
「ありがとうございます!」と、結愛は元気に返事をする。
スパルタ鬼師匠として厳しく指導を続ける健矢だが、褒めるべきところはしっかりと褒める。信賞必罰を忘れないのが彼の流儀だった。自分の選んだ位置に間違いがなかったことを確かめ、結愛はホッと胸を撫で下ろす。
しかし、赤信号で停止しているそのわずかな時間の間に、隣り合う「左折専用レーン」の車並みを見た健矢の眉間が、スッと険しくなった。
「そういえばコイツも……昔、自動車のハンドルを握ってた奴らさえよく分かってなくて、本当に頭を抱えた代物だったな」
「コイツ……って、何ですか?」
前方の青看板を見上げながら、結愛が首をかしげる。どうやら結愛自身も、この複雑な車線構造における自転車の立ち回りを完全に理解しきっているわけではなさそうだった。
「左折専用レーンが存在する交差点で、自転車が『直進』する場合のルールの存在さ」
健矢の言葉に呼応するように、結愛の網膜VR上で管理AIのイズミが青い解説ウィンドウを立ち上げる。
『補足しますね、結愛ちゃん! さきほど健矢様がご説明された通り、左折専用レーンがある車道で直進する自転車は、巻き込み事故を防ぐために「直進レーンの左側」、もしくは「左折レーンの右前方」に陣取って信号を待つのが正しい交通法規でございます!』
「そう。名目はあくまで『巻き込み防止』だ。だがな……」
健矢はそこで言葉を区切り、ふっと鼻で冷たい笑みを漏らした。
「だがな……?とは?」
「昔のドライバーの中には、交通ルールのイロハも知らずにハンドルを握っている馬鹿が山ほどいたってことさ。かく言う俺も教習所に通った元免許保持者だが、習った記憶なんざ残っちゃいなかったしな。」
健矢は呆れたように片手で額を押さえた。
「『馬鹿正直に自動車(俺ら)に付き合って、自転車も一緒に左折しろや!チャリカスが!』と盛大に勘違いを拗らせたり、『こんな左折レーンの横の変な場所で直進待ちしている自転車なんて、見るからに危ない!道路交通法違反だ!』と、血相を変えてクラクションを鳴らしたり、唾を飛ばしながらケチをつけてくる無知な連中が後を絶たなかった。」
「えー......クラクション連打の方が道交法違反ですよね?」
「全くだ!あの頃のロードバイク乗りは、本当にそういう理不尽で滅茶苦茶なイチャモンに悩まされたもんだ。道交法違反は奴らの脳みその中身と飾りになり果てるまで退化した耳だったよ!」
「 ルールをよく知らない人から見たら、かえって危なく見えちゃうこともあるんですね……。昔のサイクリストの先輩方って、本当に大変だったんですね……」
結愛が同情するように目を丸くすると、健矢は「まぁな」と小さく頷いた。
「もちろん、無知なドライバーがいなくても、現実の道路じゃ厄介な障害はいくらでもある。例えば、交差点の先頭にドカンと大型トレーラーや路線バスが陣取っていて、自転車が指定のポジションに物理的に滑り込めないことだって日常茶飯事だ」
「そんな時、無理やり車の間をすり抜けようとしたら死んじゃいますよね……どうするんですか?」
「そういう時はな、変に意地を張る必要はない。一時的に歩道を慎重に『借りる』か、あるいは『諦める』ことだ」
健矢は前方の交差点を指差して教え込む。
「無理して危ないポジションをキープするくらいなら、いったん安全に左折を済ませてから、少し先の路地に入って目的地へ向けて『リルート(迂回)』し直す。それも立派なサイクリストの知恵であり、生き残るための高度な戦術だ。教本をただ暗記するだけじゃなく、目の前の現場の状況に応じて柔軟に判断を変える。それができなきゃ、すぐにアスファルトの上のシミになるぞ」
一方的に机上の空論を押し付けるのではなく、実際の道路環境やトラブルの事例を交えながら、現場で即座に答えを出させる実践的な教習。
イズミやシオンといったAIたちの緻密なバックアップも受けながら、結愛はただの「自転車初心者」から、交通社会を生き抜くシビアな「一人のロードバイク乗り」へと、確実に階段を登り始めていた。
「はい! 無理せず、臨機応変に安全第一でルートを選びます!」
信号が青へと変わる。
健矢の背中に続き、結愛のチェレステカラーの車体が、京都の大動脈である五条堀川の交差点を鮮やかにクリアしていくのだった。




