第53話:【道路交通法~とりあえずこれだけは~】
西陣をスタートし、サイコンに表示されたマップとルートデータを確認しながら、結愛は愛車『MIRANO7(ミラノ・セブン)』のペダルを軽快に回していた。
今日はサイクリングロードと市街地のロードを巧みに絡めた、およそ20キロ前後のコース。山崎健矢が普段のトレーニングで走り込んでいる、L2(持久力向上)を目的とした平坦路の基礎ルートの1つだ。
教習がメインのフィールドワークであるため、健矢はいつもより少しペースを落とし、結愛のすぐ左斜め後ろをピタリと並走しながら交通解説を続けていた。
「いいか結愛、大通りの使い方だが、ママチャリとは全く違うと思っておけ。まずは堀川通を今出川から七条まで南下して、片側2車線以上の大きな道路における立ち回りを徹底的に体に叩き込むぞ」
「はいっ!」
「大前提として、自転車は車道の左側通行だ。それに、今は街中に利口なAI制御の自動運転車があふれ返っているおかげで、昔ほど無法な車に怯える必要は薄れたが……それでも一応言っておく。『歩道は、どうしようもない緊急回避の時にだけ使え』。基本は車道だ」
「歩道の自転車レーンは使わないんですか?」
「交差点ごとにある段差でタイヤやホイールの寿命を縮めるし、ロードバイクの速度を歩道に持ち込むこと自体が有り得ん。俺らの身に置き換えればあのガルバリウムの塊に当たる恐怖そのものだからな。」
「納得しかないですね。わかりました。」
健矢のトーンは真剣そのものだった。結愛はハンドルを握る手にぐっと力を込め、視線を前方の交差点へ向ける。
「それから、車道走行時と歩道走行時では従うべき信号の種類やタイミングが違う。特にこの堀川通や五条通みたいな片側2車線以上の広い道路じゃ、左折専用レーンの右側を通るべきか、あるいは直進レーンの左側にきっちり陣取るべきか、瞬時の判断が求められる」
網膜VRを通じて、管理AIのイズミが補助データを提示する。
『補足いたします。 片側複数車線のある交差点では、巻き込み事故や後続車との進路交錯を防ぐため、車線ごとの適切な位置取りが法律上も極めて重要でございます!』
「そうだ」と健矢が言葉を引き継ぐ。
「前の時代のペーパー免許保持者や、交通ルールを舐め腐った連中なら『え、これどうすんの?』とパニックになるところだが、お前は違う。ルールを知って守らなければ、時代とか関係なく、ロードバイク乗りとして話にならない。もし交通量が多すぎて自分の技量じゃ無理そうなら、意地を張らずにルートそのものをちょっとだけ変えるといった『柔軟性』も要求されるからな、覚えておけ」
「む、無理そうだと思ったらルート変更する勇気も大事なんですね……!」
「あたりまえだ。命があってこその趣味だからな。それと......もし万が一、歩道を使わせてもらう場合の話だが、我々はあくまで『借りる立場』.......つまるところ我々は原則として招かれざる客だ。下りの高速車両を優先する山道の自動車と違って、こちらのスピードを出ていようと、歩道上では歩行者が絶対に優先だということを忘れるな」
さらに健矢は、無人化が進んだサイクリングロードでの注意点についても言及した。
「これから向かう無人化したサイクリングロードだが......今は無人だからって油断するな。ごくまれではあるがランナーやペットの散歩をする人間がいたら、そちらへの配慮を最優先にしろ。合図を送るための『手信号』の出し方も、あとでみっちり仕込んでやる」
「はい、分かりました……っ!」
信号が変わるタイミングで一時停止し、息を整える結愛の横で、健矢はふと遠い目をしながらヘルメットの顎紐をキュッと締め直した。
「……にしても、こうやって道交法の説明をしてるとよ、昔の理解不能なバグに悩まされた苦い記憶が蘇ってきやがる」
「バグ、ですか?」
水分補給のボトルに手をかけながら、結愛が首をかしげる。
「ああ。今じゃすっかり時代遅れになった、多数派工作が引き起こした『バグ』みたいな話さ。結愛、お前は昔のロードバイクって、ママチャリとは違う特別な常識で動いてたって知ってたか?」
「ええ、それはもう散々健矢さんから教わりましたよ! ママチャリ感覚で乗ったら即死するって……」
「あー、ちょうどいい。なんでママチャリ感覚でロードバイクに乗るべきじゃないのか、その根っこにある........理不尽だが地味に重要な理由を教えておいてやろう」
「お願いします」
健矢は渋い顔のまま、目の前を通り過ぎていく自動運転車の一群を睨みつけた。
「俺が当時、今でもたまに思い出すくらいに猛烈に苛立っていたことだ。……やろうと思えば同じような速度こそ出せるが、なんで軽くて面積の小さい自転車より、明らかにデカくて重い『自動車』を運転する連中のほうが、圧倒的に法律の知識や厳しい制限を『要求されなかった』んだよってことだ!」
「おかしくないですか?」
「だよな?あっちの方が一歩間違えば人間をペシャンコにしたり、自動車内の人間を衝撃であの世に送り得る凶器なのに、なぜか自転車乗りばかりが『邪魔者』扱いされて厳しく見られてた。それを気にする奴なんてロード乗ってるやつしかいなかった。」
「それって……」結愛はまばたきをした。「バグ……ですね」
「だろ?」
鼻を鳴らす健矢の肩の上で、管理AIのシオンが慇懃無礼なクリアボイスでスッと割り込んできた。
『補足します。旧世紀における道路交通インフラの構造的欠陥および、モータリゼーション最優先の社会構造が生み出した統計的偏見について、データ上の裏付けが存在します。歩行者・自転車・自動車の力学的一般論において、脆弱側への過剰な注意喚起と強者側の免責的傾向は、交通心理学上も明確な矛盾とされています』
「シオンさん、めちゃくちゃ詳しい分析ありがとうございます……!」
苦笑いを浮かべる結愛。
「まぁ、過去の理不尽な世間の目とそれに由来する余計な危険はともかく.......」
健矢は再びペダルに足をかけ、前方を指差した。
「今の時代、お前が公道を走る上で『知らなかった』では済まされない。法律を盾に我が物顔で走るわけじゃなく、自らの身を守るために交通法規を完全に頭に叩き込む。それがロードバイク乗りのマナーであり、誇りってやつだ」
「はい! ママチャリ感覚を捨てて、安全第一で.......ロードバイクの走りをこの身に刻みます!」
「よろしい!」
旧時代への苦みの強いブラックコーヒーのようにほろ苦いボヤキと、現代のシビアな道交法。その両方を胸に刻み込みながら、結愛のチェレステカラーの愛車と健矢の白いイタリアンバイクは、再び京都の爽快なアスファルトの上へと力強く滑り出していくのだった。




