第52話:【しっかり寝てしっかり食え】
西陣の朝。キリッとした冷涼な空気が漂う中、定休日を利用したライド日、いよいよ愛車『MIRANO7(ミラノ・セブン)』を駆っての本格的な公道実地教習(実走)が始まる朝がやってきた。
いつもであれば、西陣の町家『アルカディア』のダイニングには、手際よく仕込まれたシンプルで質素な和朝食が並ぶところである。しかし、今日ばかりは様子が違っていた。
「おっ、起きたか結愛。さっさと席につけ」
テーブルの上にドンと置かれた大皿を見て、結愛は目を丸くした。そこにあったのは、香ばしいウインナーと炒め玉ねぎ、そして濃厚なケチャップソースがたっぷりと絡みついた、いかにもガッツリ系の「ナポリタン」だった。
「なっ……! 朝からナポリタンですか!?」
結愛は信じられないものを見る目で皿と山崎健矢の顔を見比べる。
「サイクリングの朝といえば、和食の焼き魚とか、ヘルシーにおにぎりくらいじゃ……! こんな脂っこいものを朝から胃に入れたら、走り出したら絶対にもたれちゃいますよ!」
「バカ言え」
健矢は自分の皿にも同じように山盛りのナポリタンを盛り付けると、フォークで豪快に巻き取りながら鼻を鳴らした。
「長丁場のサイクリングを甘く見るな。昨日言ったばっかだろ?ロードバイクのペダルを回し続けるには、炭水化物(糖質)だけじゃなく、持久力を長く支える脂質も不可欠なんだよ。朝からしっかりカロリーと脂質を胃袋にブチ込んでおかないと、途中でガス欠を起こして路上のオブジェになるのがオチだ」
「ぐぬぬ……理屈は分かりますけど、朝からこのボリュームはヘビーです……!」
「まぁ後.....朝食をしっかり食ったからといって、道中での補給をサボっていいわけじゃねぇ」
健矢はそう言うと、作業カウンターから一口サイズのスポーツ羊羹(和菓子)を数個ひょいと掴み取り、結愛のサイクルジャージのバックポケットに無造作に突っ込んだ。
「ほれ、どうせお前は出発の準備でバタバタして、補給食の用意なんかする暇もなかっただろう?今日のところは、これをジャージのポケットに突っ込んどけ」
「あ、ありがとうございます……って、羊羹ですか?」
ジャージの背中越しにずっしりと伝わる和菓子の重みを感じながら、結愛は首をかしげる。
「そうだ。羊羹は消化吸収が驚くほど早くて胃もたれしねぇし、バックポケットのわずかなスペースにも綺麗に収まる。サイクリストにとってはまさに神がかり的な最高の補給食なんだよ。前にも言ったが、腹が減ってから食べるようじゃすでに手遅れだ。空腹を感じる一歩手前に『こまめに』糖分を叩き込む。これが長距離を走り抜くための絶対の鉄則だってな」
健矢の言葉に、結愛は「おそるべし、補給の科学……」と感心しながら、ジャージのポケットをそっと押さえた。
そのナポリタンのガッツリとしたカロリーと羊羹の意味を知った瞬間、結愛の脳裏に数日前に起きたある出来事が鮮烈に蘇ってきた。
(……はっ!!)
数日前、管理AIのイズミと一緒に駆け抜けた「シェイクダウン(カフェ&ベーカリーライド)」の光景。あのとき、イズミがやたらと美味しそうな焼きたてのパン屋や、糖質とバターの塊のようなデニッシュの美味しい店をコースのあちこちに組み込んでくれたことを思い出す。
(あれは単に京都の街でおしゃれにカフェ巡りをしたわけじゃなくて……! ライド中に途切れることなくエネルギーを補給し続けるための、実践的なカロリー摂取の予行演習だったんだ……っ!)
すべてが一本の線で繋がり、結愛は思わずハッと目を見開いた。
「どうした、ボーっと突っ立って。まさか出発前からエネルギー切れか?」
店の前で愛車の最終チェックと簡素な動的ストレッチを終えた健矢が、ヘルメットを小脇に抱えながら振り返る。
「い、いえ何でもありません! それよりも健矢さん、ちゃんと朝食も食べて、ポケットに羊羹も入れました!」
「よし。じゃあ出発する前に、もうひとつ重要なことを教えておく」
健矢は愛車にまたがる直前、真剣な眼差しで結愛の顔をまっすぐに見据えた。
「昨夜はちゃんと、最低七時間は寝たか?」
「はい、それはもうバッチリ熟睡しました!」
「ならいい。……いいか、睡眠不足ってのはサイクリストにとって文字通り『死刑宣告』に等しいんだ」
結愛はビクッと肩を揺らした。
「走行中、お前の脳と目は、路面の細かな段差、前方や背後を走る自動車の挙動、突然飛び出してくる歩行者、吹き抜ける横風、そしてチェーン落ちの予兆に至るまで、膨大な情報を一瞬で処理し続けなきゃならん。これらを完璧にさばくための『認知リソース』は、人間にとっての命綱なんだよ」
健矢は自身の苦い過去を思い出しているのか、少しだけ目を細めた。
「昔の俺の話だが、睡眠不足のままフラフラの状態で峠の山道に突っ込んだことがあってな……。その時は寝不足で認知能力が著しく落ちていて、路面にあった些細なグレーチング(溝蓋)の鉄板のスキマに気づけず、そのまま盛大に落車して大怪我をした。あれは骨が折れるだけで済んだからよかったものの、一歩間違えば対向車に轢かれて即死だった」
健矢の肩の上で、管理AIのシオンが無機質な音声で淡々と慇懃無礼にデータを展開する。
『補足データを提示します。睡眠不足に起因する反応速度の遅延は、飲酒運転時と同等、あるいはそれ以上の重大な事故発生リスクを引き起こすと各種データにより実証が確認されています』
「い、飲酒運転と同等……! そんなに危険なんですか……!?」
「そうだ」健矢は強く頷いた。
「脳と神経を休めず、さらにエネルギーであるブドウ糖が切れたりすると、人間の認知リソースは一気に瓦解する。さっき言った補給食でこまめに糖分を補給する本当の理由は、ただ単に足を動かす筋肉のためだけじゃない。 『脳の認知リソース(集中力)』を常にクリアに維持し、公道のあらゆる危険から我が身を守って生き残り続けるため なんだよ」
「筋肉のためだけじゃなくて、脳の集中力を保つために食べる……!」
深く、深く納得したように結愛はうなずいた。
ただ楽しく自転車に乗るだけではなく、命を守るための初歩的な知恵が、この「しっかり寝て、しっかり食う」の一言に全て詰まっているのだと肌で理解した瞬間だった。
「しっかり寝て、しっかり食う! 教習の前に、人間の基本の『き』から叩き込まれました……!」
「分かればよろしい」
健矢はフッと笑い、店先から青空の広がる京都の車道へと手招きした。
「よし、座学はここまでだ。お前と『MIRANO 7』のジツリキと、さっき詰め込んだカロリーと知識が本物かどうか……。最初の実地教習コース、平坦路二〇キロのL2(持久力向上)トレーニングへ、いざ出発だ!」
「はいっ……!結愛、いきます!」
朝の澄んだ空気の中、ペダルを踏み込んだ結愛のチェレステカラーの車体が、確かな足取りで輝かしい公道へと飛び出していくのだった。




