第51話【死亡条件(ハンガー・ノック)】
夕闇に染まる京都西陣。町屋を改装したブックカフェ『アルカディア』は今日も元気に開店休業を終えた。掃除と会計チェックという店じまいを終えた各員は愛車をメンテをしていた。
「……で、だ」
手近にあった椅子に腰掛け、スパルタ鬼師匠・山崎健矢は、ピカピカに仕上がった結愛の愛機『MIRANO 7』を一瞥しながら冷徹に言い放った。
「お前、一連の買い出しですっかり満足してるが……ロードバイクに乗るってことが、どれだけ人間のエネルギーを燃やすか分かってんのか?」
「え……? ウェアもヘルメットも、ライトも鍵も、ぜーんぶ完璧に揃えましたよね? あとはペダルを踏んで走るだけじゃ……」
首をかしげる結愛に対し、健矢はフッと鼻で笑うと、スマートフォンを操作して古い時代の自転車事情を語り出した。
「俺が自転車を始めた時代じゃ、クソみたいな盗っ人も多かった。が、同時に通りすがりの温かいサイクリストもまた多かった。パンクして立ち往生していれば、見ず知らずの乗り手が声をかけてチューブを分けてくれたり、工具を貸してくれたりしたもんだ。だがな……」
健矢の目が、スッと細くなる。
「今の時代はどうだ? 街には盗っ人もいなければ、余計な干渉をしてくる人間もいない。だがな、言い換えれば…… 路上の片隅で動けなくなったお前を、自発的に助けてくれる自転車乗りなんて、身内以外に一人もいねぇってことだ。」
その言葉の重みに、結愛はゴクリと喉を鳴らした。
「つまりはだな……現代において、ライド中のトラブル、特に『ハンガーノック(エネルギーの完全枯渇)』がもたらす死亡リスクや孤立の評価は、前の時代よりはるかに跳ね上がってんだよ」
「はんがーのっく……?」
網膜VRを通じて、管理AIのイズミが素早く青い解説ウィンドウを展開する。
『補足しますね! ハンガーノックとは、激しい運動により体内の糖分が完全に枯渇し、脳や筋肉へのエネルギー供給が絶たれる現象です! 猛烈な疲労感やめまい、思考能力の強制停止を引き起こし、最悪の場合は路上で意識を失う極めて危険な状態を指します!』
「とまぁ、こんな具合でとにかく洒落にならん。だからこそ言っておくが、ボトルの水はもちろん当然として…… 携行食(補給食)と塩タブレットは、常にジャージのバックポケットかサドルバッグに忍ばせておくのが、サイクリストの絶対的な定石だ。 腹が減ってから食べるんじゃ遅い。腹が空く一歩手前に、こまめに糖分を叩き込むんだ」
真剣な面持ちで頷く結愛に向かって、健矢はふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だがな、絶望したくなるような怖い話ってばかりでもない。喜べ、結愛」
「え? なんですか?」
「ロードバイクってのはな、驚くほど効率よく、かつ爆発的にカロリーを消費する乗り物だ。時速二十キロ台で平坦や坂道をクルクル回していれば、 たった100kmも走ってりゃ、人間の体は3000〜5000kcalを当然のように消費する。」
「さ、さんぜん……ご千キロカロリー……!?」
数字を聞いた瞬間、結愛の目が飛び出さんばかりに見開かれた。人間の1日の基礎代謝の優に2倍、いや3倍近いエネルギーを、自分の小さな肉体だけで丸一日で燃やし尽くすという事実。
「そうだ。言い換えればだな……ガッツリとロングライドの苦行を楽しんだあとなら、 胸焼けするまでパンケーキや甘いものをドカ食いしても、ものの見事にすべてチャラになって綺麗に痩せられるってことだ!」
「パンケーキが……チャラに……!」
「ああ。お前も会社員時代に見たことあるだろ?『痩せないよね~』とかのたまいながらホイップ塗れのパンケーキをパスタとか食った後に頬張ってるバカオンナどもを」
「バカは酷すぎません!?確かによく見ましたが。」
「事実だろ。奴らはロードでみっちり走ったわけでもなく、デスクワークの後なんだから。だが、ロードで走り倒した後なら.....話は変わるんだよ。」
「確かに。というかいつも通りの食事で済ましていい数字じゃありませんよね!?」
健矢は黙って首を盾に振り、続けた。
「まぁ、パンク修理キットやら電動ポンプでの機材の現地修理も確かに大事だが、『走行中にエネルギーを補給し続けるための補給食』でのカロリー補給もまた『欠かせない』ってわけだ。座学だけではわからんもんだからな。」
「全く以てその通りです。」
慇懃無礼にそう言い放ちながらヌっと現れるシオン。
「前にも話しましたが、マスターは私を信用してなかった頃、意地になってスマートウォッチやサイクルコンピューターを見ながらギリギリを攻めすぎて4回もハンガーノックで倒れましたからね。『小うるさい鉄クズめ!俺は騙されんぞ!?俺はまだいけるんだよ!』って」
「そういえばそんな話、中嶋さんとこで聞きましたね。」
「やかましいわ!古傷にいちいち塩塗ってくるんじゃねぇ!?録音した音声を再生すんのやめろ!......ってなわけで結愛。お前のその華奢な体が、路上でどれだけ『削られて』いくのか..........明日からの実地教習でたっぷり味あわせてやるよ」
ロードバイク趣味者が生み出す移動距離の桁違いの長さと、それに伴う消費カロリーの暴力的なまでの大きさに、結愛はただただ圧倒され、絶句しながら自分の細い脚を見つめ直すのであった。
健矢のハンガーノックに関する
やらかしエピソードを復習できる
スマートウォッチ選び編はこちら!(https://ncode.syosetu.com/n8969mn/73/)




