閑話①ディストピアには逆らえない?
「あー……あー……。あかん、マジで一歩も動けん……」
日付を跨ぎ、時刻は深夜2時を回っていた。
老舗『サイクルショップGIRO中嶋』のピットの片隅で、山崎健矢は工具箱を枕代わりに床へ倒れ込み、天井の蛍光灯を薄目で見上げていた。
隣では、伏見結愛がソファのクッションに顔を埋めたまま、ピクリとも動かない。朝から愛車の『Mirano7(ミラノ・セブン)』を選び、ウェア、ヘルメット、シューズ、そしてライト、サイコン、スマートウォッチ、ボトル、頑丈な防犯鍵の多重セットアップに至るまで——。
鬼師匠と頑固店主の徹底的なミリ単位の調整に付き合い続けた結果、彼女の体力も持久力も精神力も完全に枯渇していた。
「……腹が……減った……」
結愛たちの口から、蚊の鳴くような掠れ声で極限まで省力化された返事が漏れる。
「だな……」
「ですね……」
健矢と中嶋の大将が、申し合わせたように重い溜め息を吐いた。半日以上、油と金属の匂いに包まれながら集中力を研ぎ澄ませていた男たちもまた、極限の空腹状態に達していたのだ。
「お前ら......今日はもう......疲れたろ。今夜はうちに泊まってけ。ブランケット.......被って、ソファで.....雑魚寝だが(笑)」
中嶋がウエスで手を拭きながら、サバサバとした調子で宿泊を快諾する。
「こんな時間から.......西陣まで、歩いて.......帰ったら、途中で結愛の嬢ちゃんが、倒れて......警察ドローンの世話になるのが、オチだ」
「助かります、大将……」
健矢は這うようにして体を起こし、厨房兼裏方スペースへ向かう中嶋の背中に声をかけた。
「なんでも良いっす、大将の家にある適当な.....米と漬物でいいんで、とりあ、腹に溜まるもん……」
しかし、裏方へ消えた中嶋から返ってきたのは、絶望的な無情の宣告だった。
「……冷蔵庫が、空だ」
「……はい?」
健矢の首がギギギと嫌な音を立てて回る。
「だから、冷蔵庫がすっからかんなんだよ。買い出しに行くヒマもなかったろ?あー、ダメだこりゃ、カップ麺の......備蓄すら切れてる」
「うそでしょーーー!?」
ソファから跳び起きた結愛が悲鳴を上げる。
「こんなに疲れて、お腹ペコペコなのに、食べるものが何もないんですか!?」
「落ち着け、結愛」
健矢は深呼吸をし、網膜インターフェースを起動した。
「俺たちにはまだ出前がある。おいイズミ、今すぐこの周辺で深夜出前が取れる店を検索して注文しろ。俺のクレカ決済で一番ガッツリ食えるやつだ」
『了解いたしました、健矢様♪』
結愛の管理AIイズミが、朗らかな音声とともにホログラムウィンドウを展開する。
しかし——数秒後、イズミの画面に表示された「深夜配送可能な店舗一覧」を見た瞬間、現場の空気が凍りついた。
『提示いたします。現在、深夜2時を過ぎた旧市街地において、行政AIの効率化プロトコルに基づき営業を許可されている出前サービスは……【行政生体栄養供給公社・緊急配給便】のみとなっております』
「……は?」
健矢の顔から血の気が引いていく。
『ご注文可能なメニューは以下の通りです。
・生体維持用高タンパク栄養ペースト(無味・高粘度)
・パウチ式流動食ゼリー(完全栄養食・塩分調整済)
・非常用高カロリー生体ジェル(微バニラ風味)』
画面に並ぶのは、銀色の味気ない無機質なパウチパックの写真。 かつて堺の居住カプセルで「家畜」のように与えられていた、咀嚼の必要すらないAI時代の完全栄養食だった。
「な……なんですか、これ……」
結愛の瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
「旧市街の飲食店は、深夜のエネルギー消費削減令で全店閉店……。残された選択肢は、行政ドローンが運んでくる配給パウチのみ……」
健矢は自分の額を押さえ、ジト目で画面を睨みつけた。
「ある意味、初めてのパンク修理より残酷だわ、コレ……」
「嫌です……嫌ですぅぅぅ!」
結愛はその場にへたり込み、頭を抱えて号泣した。
「私……この1年、健矢さんの店で白米を食べて、大根を運んで、汗をかいて……生身の人間として生きる喜びを知ったのに! なんでこんな真夜中に、またあの無味無臭のチューブを吸わなきゃいけないんですかぁぁぁ!」
「私、人間、辞めません!!(号泣)」
ピット内に結愛の切実で混沌とした悲鳴が虚しくこだまする。 だが、空腹で目が霞みかけている健矢と中嶋には、もはやその行政パウチを頼む以外の選択肢は残されていなかった。
◇
二十分後。 静まり返った夜の東洞院六角に、行政清掃・配給ドローンの無機質なローター音が響き、ショップの軒先に銀色のパウチが三個、ポトンと落とされた。
『配給完了。健矢様、必要栄養素の摂取を開始してください♪』
イズミがにっこりといい笑顔で微笑む。
店内のソファで、健矢、結愛、中嶋の三人は無言で並んで座っていた。
各自の手には、冷たい銀色のパウチパック。
「……食うぞ」
健矢が苦虫を噛み潰したような顔でキャップを外す。
「俺は死ぬまで、こんなペーストなんか喉に通さねえって誓ったんだが……愛車選びの為だ。背に腹は代えられん」
「うぅ……いただきます……」
結愛は涙目でパウチの吸い口を咥え、ちゅーっと内容物を口の中に流し込んだ。
とろりとした、味のしない、高濃度のタンパク質とカロリーの塊が喉を通り過ぎていく。
「……味がない……重力もない……」
結愛の魂が口から抜けかけている。
「チッ……なんで俺が自分の金払って、この時間に宇宙食なんざ吸わなきゃいけねえんだよ!」
健矢が吐き捨てれば、中嶋の大将もパウチを握りつぶしそうな勢いで叫んだ。
「俺を巻き込むんじゃねえ! 明日の朝になったら、井口のぬか漬けと温かい白飯を腹いっぱい喰わせてやるからな!!」
スマートシティの冷徹な効率化とディストピアの現実に敗北し、深夜のサイクルショップで無機質なジェルを吸い上げる三人。 愛車を手に入れた歓喜の夜は、あまりにも惨めで、しかしどこか人間くさい「敗北の味」とともに更けていくのだった。




