第49話:【ボトルと言う名の生命線】
「ふぅ……よし、パワメ(パワーメーター)のキャリブレーションも完了だ。これでサイコンとの同期もバッチリだぞ」
作業ピットの奥から、中嶋の大将が額の汗をウエスで拭いながら声を張り上げた。朝から結愛のウェアやヘルメット選びにつき合い、続いて大量のライト、鍵、スマートウォッチ、サイコンの選定とセットアップ作業をぶっ通しでこなしてきた老舗ショップの頑固店主の顔には、隠しきれない濃い疲労の色が滲み出ている。
そして、それはスパルタ鬼師匠である山崎健矢も同様だった。
スマートウォッチ『BR20』の初期設定を終えた健矢は、カウンターの椅子に深く腰掛け、力なく天を仰いでいた。
「はぁ……はぁ……。ようやく、デジモノ類も片付いたか……」
結愛に至っては、疲労の限界を迎えてカウンターに突っ伏してピクピクと指先を動かすのが精いっぱいだった。
(これで本当に終わり……。もう一歩も動けないよぉ……)
心の中でそう歓喜の涙を流しかけた結愛だったが、ふと健矢がハッと目を見開いた。
「……いかん。コイツを忘れたらだめだな。最悪、死にかねん」
「ひえっ……!?」
跳び起きる結愛。
「し、死にかねんって……健矢さん、またそうやって大げさに私を脅かそうとして……っ!」
「いーや、大げさじゃねぇ」
健矢は重い腰を上げると、疲労で少しおぼつかない足取りでアクセサリー売り場の一角を指差した。
「飲まず食わずで走れるか!というのが、サイクリストの絶対常識だ。結愛お前、AI時代前の受付業務で『飲まず食わずで働けますか?』なんて言われたらなんて返すよ?」
「無理です。」
「だよな?あまりにも当たり前すぎて俺も大将も紹介をうっかり忘れかけていたことは認めて謝る……走行中にフレームの『ボトルケージ』からサッと『ボトル』を出し入れして、走りながら水分補給する動作は、ロードバイクに乗る上での基本中の基本なんだよ。」
「水分補給……! 確かに、喉が渇いた時にすぐ飲めないと熱中症になっちゃいますよね。」
「そうだ。真夏はもちろん、真冬だって走っていれば体中の水分が奪われる。ボトルなしで公道に出るなんてのは、砂漠に裸足で飛び込むような自殺行為なんだ」
結愛は健矢に促されるまま、ボトルケージが並ぶディスプレイ棚の前に移動した。そこには金属製からカーボン製、カラフルな樹脂製まで、様々なデザインのボトル保持パーツが並んでいた。
「わぁ……いろんな形があるんですね! フレームのチェレステカラーに合わせたら、すごくおしゃれかも……!」
少しだけ目を輝かせる結愛。
「あー、ボトルケージはパーツの中でもファッション性が高いだけに、うっかりただのおしゃれアイテム扱いするところだったわ」
健矢が呟くと、結愛の網膜VRに管理AIイズミがパッと輝くグラフィックを展開した。
『お任せください!結愛ちゃん、 事前にスキャンしたコーディネートデータおよび愛機Mirano 7のチェレステカラーにマッチする候補を3種類ほどピックアップいたしました!』
「すごい、イズミさん! どれも車体に合いそう!」
浮き立つ結愛だったが、後ろから中嶋の大将が重々しい足取りでやってきて、ガツンと冷や水を浴びせた。
「ケージはそれでいい。……だが、挿す方の『ボトル』はそうはいかねぇぞ!」
「えっ……!?」
疲労困憊のはずの二人の頑固なおじさんが、結愛を挟み込むようにして熱血指導を始める。
「あぁ、ボトル選びは軽さとエアロを優先するか、保温性を重視するか、そもそも選べないか(車種指定のものやケージとセットの製品の場合)の3択だ!」
中嶋が声を張り上げれば、健矢も深く頷く。
「保冷機能のないプラスチックボトルは軽いが、チャチなやつだと夏の陽射しの下じゃ10分でぬるま湯になる。かと言って、冷たさを完璧にキープするステンレス製の保冷ボトルは見た目通り少し重くて、走りの軽快さが少しばかり損なわれるんだ」
結愛は棚に置かれたステンレスボトルと保冷ボトルを持ち比べ、うーんと頭を悩ませた。
「うーん……ステンレスは重そうで嫌だけど、保冷がついていない普通のボトルは、熱帯化した今の日本じゃちょっと不安だよね……」
悩んだ末に結愛が手に取ったのは、柔らかい樹脂製でありながら特殊な断熱素材が挟み込まれた、業界のベストセラー『PODWIN KOOL』だった。
「これなら軽いですし、押し出すだけで水が出るから飲みやすそうです! 保冷力もバッチリですね!」
「よし、ボトルは『PODWIN KOOL』で決定だな」
健矢が頷く。
「次はケージだ。イズミが提案した3つのうち、どれにする?」
結愛は迷うことなく、あるひとつのシンプルな白いケージを指差した。
信頼の国内老舗メーカー・MINOYA製の、安価でありながらクラシカルで美しいレトロ調のアルミ製ボトルケージだった。
「これにします! 私が今日背負ってきた帆布製のリュックと、全体のレトロでクラシックな雰囲気に一番ぴったり合ってます!」
「ほう、分かってるじゃねぇか」
中嶋の大将が不敵に口角を上げた。
「MINOYAのアルミケージか。安いが耐久性は折り紙付きだ。チェレステのフレームに白いケージは映えるぞ」
手際よく、結愛のMirano7のダウンチューブに白いMINOYAのケージが取り付けられ、そこに『PODWIN KOOL』がカチッと収められた。クラシカルで可愛らしく、かつ実用的な最高のアクセントが完成した瞬間だった。
「ふぅ〜……! ボトルもケージも完璧です!」
結愛は自分の愛機を感無量で見つめ、満身創痍の体で深々と頭を下げた。
「健矢さん、大将……! 長い長い時間、本当にありがとうございました! 今度こそ、今度こそすべての準備が整いましたよね……!?」
疲れ切った結愛の問いかけに、健矢と中嶋は顔を見合わせると、同時に深い溜め息とともにニヤリと口角を上げたのだった。
ボトルなしでのライドは夏だけでなく、冬でもおすすめできないのがロードバイク。エアロ特化の高級モデルだと最初から専用品としてボトルが搭載されてるものもありますよね。




