第45話:【ビンディングは必須ですか?】
「サイコンやパンク修理キットも大事だがここいらでアレの話もしとくか。」
「他にまだあるのか」と疲労感に満ち満ちた表情を結愛の目の前に、スパルタ鬼師匠・山崎健矢は容赦なく一足の「風船のように軽い靴」を突き出した。
「この際だ。『足元』もカッチリさせておこう。」
「あ、足元……? え、普通のスニーカーじゃダメなんですか? 自転車ですよ!?」
結愛が目を丸くするのも無理はなかった。しかし健矢は呆れたように首を振る。
「ママチャリならそれでいい。ロードバイクにだってフラットペダル派も一定数存在する。しかし、ビンディングシステムがあるとペダルを押すだけじゃなく『引き上げる力』も推進力に変える事が出来る。そのために靴とペダルをカチッと固定するのがこの『ビンディングシステム』だ」
結愛の網膜VRに、管理AIイズミが即座にビンディングの仕組みをアニメーションで投影する。
『補足いたします、結愛ちゃん! 靴の裏の金具をペダルに合体させることで、脚のパワーを100%車体に伝える魔法のシステムです! これぞサイクリストの証って人も多かったんですよ!』
「ええっ……靴とペダルがくっついちゃうんですか!? 立ち止まる時どうするんですか! 転んだら....痛そうですね......?」
パニックを起こす結愛に、健矢は「最初は誰もが立ちゴケの恐怖に震える」と苦笑した。
「安心しろ。いきなりビンディングを使わせる気はねぇよ。俺だって最初から使えたわけじゃねぇ。昔は立ちゴケが怖すぎて一度挫折したし、何より金がなかったからな……三毛猫ペダルの一番安いフラットペダルしか買えなくて、それにしがみついてた時期がある」
「健矢さんにもそんなヘタレで貧困な過去が……!」
「ヘタレ言うな! だがな……」
健矢はニヤリと不敵に笑い、ポケットから電子決済端末を取り出してみせた。
「今の俺たちには、溢れるほどの資金(余剰クレジット)がある! だから今回は贅沢をする!」
健矢の視界から、管理AIシオンが淡々と補足する。
『マスターの言う通り、初心者へのビンディング導入は必須ではありません。しかし、最初からハイエンドな足元を揃えておくことは、将来的な移行ストレスをゼロにする極めて効率的、かつ贅沢な先行投資と言えます』
「最初はスニーカーで乗りたいだろ? この『フラットペダル化カバー』をはめ込めば、スニーカーでも快適に漕げる。そして慣れたらカバーを外してビンディングへスムーズに移行するんだ。靴の裏につけるクリートも、海外ブランドではなくコンポとお揃いで、S社の『3ツ穴タイプ』にしておけ。輸入物より圧倒的にパーツの入手が楽だからな」
健矢は懐かしそうに店内のピットを見渡した。 「まあ……AI前史の時代なら、ショップで実際に試乗させてもらって脱着感をテストするシーンでも困らなかったんだがな」
「大将! 足元も妥協なしだ! 一番いいカーボンソールのシューズを出してやってくれ!」
健矢の大声に、奥の作業ピットから出てきたのは店主の中嶋だった。 朝から結愛のウェア選び、ヘルメット、ライト、鍵と怒涛の接客をし続けてきた頑固店主の顔には、隠しきれない色濃い疲労が滲み出ている。
「……カーボンだと? ああ、わかったわかった。勝手に選べ!」
長時間の接客で完全にスタミナが切れた中嶋の大将は、あからさまな省力化モードに突入していた。奥の棚から高級イタリアンブランドのシューズ箱を抱えてくると、フィッティングベンチの上に無造作に「ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!」と5モデルほど並べる。
しかし、省力化して雑になった仕事とはいえそこは老舗プロショップの店主。イタリアの職人技と最先端のエアロダイナミクスが融合した息をのむほど美しく、見ただけで最高峰の性能を感じられるカーボンシューズばかりが並んでいた。
「う、うわあぁぁ……っ! すごい、なにこれ……! カッコいい……!!」
結愛の目が一瞬で輝いた。 パステルカラーの装飾、ダイヤルを回すだけで足全体が吸い付くようにフィットする最新のBOAシステム、そして靴の裏側で鈍い黒光りを放つ本物のカーボンソール。
「素晴らしいです、結愛ちゃん!」イズミが大興奮でホログラムを舞わせる。「イタリアンブランドならではの洗練されたシルエット! チェレステカラーのMirano 7に合わせたら、足元から後光が射しますよ!」
「ですよね!? でも、どれも素敵すぎて選べないよ〜! 軽いし、履き心地も全然違うし……どうしよう、どうしよう〜!?」
5台の最高級シューズと、フラットペダル化カバー、国内製3ツ穴クリートのセットを前に、贅沢すぎる悩みに頭を抱えて歓喜の悲鳴をあげる結愛。
そんなパニック状態の教習生を眺めながら、健矢は腕を組み、底意地の悪いニヤリ顔を浮かべた。
「……フン。ビンディングシステム断念から始まって、三毛猫ペダルの最安フラペしか選べんかった俺に言わせりゃ、おめーはとんでもなく贅沢な初心者だよ」
「うぐっ……! でも、健矢さんが『今回は贅沢する』って言ったんじゃないですかー!?」
「言ったが、悩めとは言ってねぇ! さっさと決めて足元固めろ!」
疲労困憊の中嶋の大将が「おいおい、喧嘩なら外でやれ……」と力なく手を振る横で、結愛の「終わらない選択の沼」と公道デビューへの前哨戦は、まだまだ賑やかに続いていくのだった。
本日更新のスピンオフ「おりほー(https://ncode.syosetu.com/n8592mp/)」の最新話「虎の関西2026」にて三毛猫ペダルで始めた世知辛い健矢の生活描写の一部が紹介されています。20:00ごろに更新予定なので、お楽しみに!




