第5話:【プロテインの論争と、午前三時の迎撃体制】
夜二十一時四十五分。
峠道を激走し、徹底して守り抜いている就寝スケジュールに遅れることなく西陣のカフェへ帰還した健矢は、純白のF50を部屋のバイクラックへと慎重に掛けた。フレームにこびりついた汚れとタイヤが拾ったわずかな砂をウエスで拭き取り、フレームの「 TR700」のロゴを愛おしそうに撫でる。
ジャージを脱ぎ捨て、高機能アンダーウェア1枚だけを身にまとい、厨房へと降りる。
夜間の高強度トレーニングによって筋肉は激しく破壊され、完璧な飢餓状態となって栄養を求めていた。健矢は無言でシェイカーを取り出し、チョコレート味のプロテインの粉末をスプーンで三杯、牛乳と共に手際よくシェイクする。
「……なー」
クロが目を覚まし、眠たげに健矢の足元へ擦り寄ってきた。座布団のリコも、微かに耳を動かしている。
健矢がプロテインを一気に喉へと流し込んでいると、再び脳内の網膜VR端末がピキリと電子音を立てた。
【シオン:山崎健矢様。その粉末プロテインの摂取は非効率的です。大豆および乳清からのタンパク質抽出効率は、行政が配給する『完全栄養ペースト・タイプB』と比較して28%劣ります。また、胃腸に無駄な消化負荷をかける行為です】
脳内に響くシオンの合成音声は、先ほど峠で命名された「名前」をすでに完全に同期させていた。
「うるせぇ。俺は自分の胃袋で消化して自分の血肉にしたいんだよ!お前の効率論を俺の身体に持ち込むんじゃねぇ!」
健矢はシェイカーを洗い流し、カウンターの奥へと歩いた。そこには、数時間前に鈴木さんから託された魂
『古いアコースティックギター』が静かに佇んでいる。深い飴色の木肌が、常夜灯の薄明かりに照らされていた。
シオンの音声が、そのギターを網膜のセンサーでスキャンするように、視界に緑色の照準光を重ねてきた。
【シオン:該当オブジェクトの検知ログを確認。YAMADA社製アコースティックギター。製造から半世紀以上が経過。行政基準において『非効率な可燃物』および『空間占有率を圧迫する廃棄物』に分類されます。速やかな廃棄処分、あるいはドローンによる回収を申請してください】
健矢の目が、すっと冷たく細められた。
「廃棄物だとォ? これはなァ、今日まで生身で生きてきた一人の人間の、命の破片だ。この店は俺の聖域だと言ったはずだ。ゴミか宝かはお前が決めることじゃねぇ。俺が決めるんだよ!」
【シオン:理解不能です。客観的価値はゼロです。当機は、マスターの非効率な店舗経営および生活習慣を是正するため、より強固な介入措置が必要であると判断しました。店舗補助用実体(フィジカルAIドロイド)の搬入プロセスを開始します。搬入予定時刻は、本日午前三時ちょうどです】
「おい、待て」
健矢は思わず声を荒らげた。
「午前三時だと? ふざけんな!そんな深夜にガラクタを運び込ませてたまるか。猫たちが起きるし、俺の睡眠スケジュールが狂うんだよ!」
【シオン:夜間は行政ドローンの巡回効率が最大化されるため、最適化された時間設定です】
「知るか。ここは俺の店だ。お前らのシステムを押し付けるんじゃねぇ!」
健矢はカウンターを強く叩いた。
「どうしても持って来るっつーなら、明日の営業時間内にだ。午前八時から十六時三十分の間に持ってこい。それ以外の時間は一歩たりともこの敷地には入れさせん。接続を切るぞ」
健矢は網膜のコントロールを強引に操作し、シオンの通信リンクを遮断した。脳内の不快なノイズが消え、西陣の静かな夜が戻ってくる。
「……午前三時に自動搬入だと? 舐めやがって」
健矢は壁のギターを見上げ、それから足元のクロを抱き上げた。
行政AIどもは、人間をただの数値と効率でしか見ていない。だからこそ、人間の都合など無視して、深夜に無機質なドロイドを送り込もうとするのだ。
「明日の朝、どんな面下げてやってくるか見ものだな、シオン」
健矢は低く呟き、迎撃の態勢を整えるように、深く深く息を吐き出した。明日の営業時間内――そこでやってくる「完璧すぎる闖入者」を、彼は生身のプライドを持って迎え撃つ覚悟だった。




