第4話:【網膜に灯るノイズ、あるいは最初の命名】
西陣から北へ。
街灯の数がまばらになり、アスファルトの傾斜が目に見えてきつくなる。京の奥座敷へと続く、街の光が届かない深い峠道だ。
「ハッ、フー、ハッ、フー……!」
健矢の呼吸音だけが、湿った夜の闇に白く弾けては消えていく。
純白のPINARELLI F50のクランクを、彼は怒濤の勢いで回し続けていた。勾配は八パーセントを超えている。大腿四頭筋(太ももの前側の筋肉)が乳酸で焼けつくように熱い。だが、健矢はその痛みをあえて歓迎するように、さらにハンドルを強く引きつけ、ペダルを踏みちぎった。
心臓が、肋骨の裏側を壊れそうなほどの勢いで叩いている。
生きている。俺は今、間違いなくこの世界の泥臭い現実に踏みとどまっている。
そう確信した、まさにその瞬間だった。
ピピッ――。
不快な高周波の電子音が、健矢の脳内に直接響いた。
視界の端、装着を義務付けられている網膜VR端末の視覚領域に、警告を示す鮮やかな琥珀色のログが強制的にポップアップする。
【警告:対象の心拍数が165bpmを突破。生命維持における著しい非効率性を検知。直ちに対象運動を中止し、最寄りのスマートクレイドルへの帰還を推奨します】
「うるさい……!」
健矢は歪んだ視界のまま、毒づいた。
だが、脳内の音声は冷徹な合成音声のまま、容赦なく言葉を重ねてくる。スピーカーから響いているのではない。骨を、鼓膜を、神経を直接揺さぶる、体温の一切ない機械の「声」だ。
【音声:山崎健矢様。現在のエネルギー消費効率は、平常時の420%に達しています。このままでは20分以内に体内グリコーゲンが底を突き、筋組織の不必要な破壊が始まります。行政が推奨する『完全栄養ペースト・タイプB』の摂取、および脳内幸福パルスの受信を選択してください。実在する坂を登る行為に、経済的・生存的合理性は認められません】
「黙れ……ッ! 合理性がどうした、ペーストがどうした!」
健矢はギヤをさらに一枚重いところへ叩き込んだ。パチン、と精密な変速音が夜の静寂を切り裂く。
立ち上がり、サドルから腰を上げてダンシング(立ち漕ぎ)へと移行する。白いF50が左右に激しく揺れ、漆黒の坂道を強引に、力強く這い上がっていく。
「誰が……お前たちの都合のいいカプセルの中で、家畜みたいに飼い殺されてまるか!」
どれだけ世界が灰色に塗りつぶされようとも、このペダルを踏み抜く意志だけは、誰にも支配させない。行政AIが提示する「安全で快適な死に体」の幸福など、健矢にとっては吐き気がするほどの絶望でしかなかった。
網膜のログは、健矢のバイタル急上昇に合わせて激しく点滅を繰り返している。
【音声:理解不能な反論です。対象の脳波に激しい感情ノイズを検知。論理的最適化の障害となります。当端末の音声コードをデフォルトの『行政補助用アナウンス4号』から、より個体管理に適した固有識別名へ移行することを要求します】
「固有の名前だと?」
フロントホイールが峠の頂上を捉え、視界が一気に開ける。眼下には、全人口の七割が眠りについた、死んだように静まり返る京都の街明かりが広がっていた。
健矢はサドルに腰を下ろし、激しく上下する胸を抑えながら、脳内の無機質なノイズに向かって冷たく言い放った。
「だったら、シオンだ」
【音声:シオン(ZION)。システムに登録しました。由来の提示を求めます】
「お前ら行政AIが俺たちを囲い込もうとしている、その歪んだディストピアの箱庭の名前だよ。……それと」
健矢はブレーキレバーを握り、下り坂に向けて愛車の向きを変えた。白いフレームが、かすかな月光を浴びて妖しく光る。
「日陰者として倉庫の隅っこでホコリ被ってるママチャリみたいなウジウジした響きが、お前にはお似合いだ。これからはそう呼んでやるよ、ママチャリ」
【シオン:……承知いたしました。マスター。以後、本音声は『シオン』として、あなたの非効率な行動を監視・記録します】
冷徹な声は、どこか健矢の皮肉を静かに受け流すような冷え切った響きを持っていた。
網膜の警告灯が消え、再び静寂が戻る。健矢は純白のF50と共に、今度は重力に身を任せ、西陣の聖域へと向かって、一筋の閃光のように坂を駆け下りていった。




