第1章閑話②:【網膜VRの調整(一般市民の場合)】
山崎健矢が西陣の眼科で路面のひび割れを取り戻すために吼えていた頃。
街の反対側にある別のクリニックでは、もう一人の男が網膜VRの搭載手術を終え、ベッドの上で上半身を起こしていた。
男の名は織田(24)。重度のヒキニートであり、絵に描いたようなキモヲタである。行政の「国民皆インプラント化政策」という強制力がなければ、一生白い太陽の下に出ることはなかったであろう人種だ。
「……ん? 術前より明らかに鮮やかであるな!」
麻酔が切れ、視界の四隅に起動ログが走った瞬間、織田はガタッとベッドを揺らして歓喜の声を上げた。
彼の脳内にも、健矢と同じく無機質な行政AIの初期音声が響く。
【#O-849-NTR:初期同期完了。織田様。当端末は脳波および視神経と完全にリンクしました。これより日常の視覚的ストレスを……】
「Foooooooo!!これがいわゆるパーソナルAI殿か! 素晴らしい、実に素晴らしいでござる!」
織田は病院の薄暗い天井を見上げ、感動のあまり涙ぐんでいた。
「あのぉ...織田さん、ここ病院なんで静かにしてもらえますか?」
そんな看護士の常識的な注意など、彼の耳にはもはや微塵も入ってなどいなかった。彼にとってこの網膜VRの視覚補正は、現実の偽装などという大層なものではなかった。
それは、自室のゲーム用モニターをフルHD規格の旧型から、最高級の8K・有機ELモニターに交換した時のような、得も言えぬ映像美の暴力だった。
病院を出て、千本通の無機質なアスファルトを一歩踏み出した瞬間、織田のオタクとしての悪魔的かつ天才的な脳細胞が、フル回転で演算を開始した。
「待てよ……? 視神経に直接介入してリアルタイムで画像を書き換えているということは、だ。もし、AI殿!」
織田は脳内の無機質な音声に向かって、鼻息を荒くしながら心の中で問いかけた。
「この端末の解像度とテクスチャフィルターの設定を限界まで引き上げ、さらに行政のオープンソースにあるアセット(画像素材)を流用した場合……そこらを通行中のおなごは皆、拙者の推しである『マジカル☆ルナちゃん』のアニメ絵になったりするのでござるか!?」
一瞬の沈黙。行政AIは、織田のあまりにも邪悪で、しかしシステム的には完全に実行可能な要求を処理するために数ミリ秒の暗転を挟んだ。
【#O-849-NTR:……理論上は可能です。著作権フリーの行政広報用二次元キャラクター『美星みやこ』のモデルデータ、および簡易二次元化フィルターの適用を開始します。警告:この設定は現実の認識率を著しく低下させます】
「構わん! 突撃でござる!」
パチ、と織田の網膜が駆動した。
その瞬間、彼の世界は完全に「救済」された。
薄汚れた雑居ビルはパステルカラーの可愛い商業施設へと姿を変え、道路を走る無骨な自動輸送カプセルはファンタジー世界の魔導馬車になった。
そして何より、向こうから歩いてくる、買い物袋を下げたごく普通の一般女性(推定40代・主婦)の姿が――完全に頭身のバグった、うるうるとした瞳を持つ超絶美少女アニメキャラにリアルタイムでレンダリング(描画)されていた。
「コパァッ……!? なんという神ガジェット……! 現実が、現実が完全に敗北したでござる!!」
織田は千本通の真ん中で両手を突き上げ、狂喜乱舞した。
主婦のアニメキャラが「何あの人……」という軽蔑の視線を送ってきたが、織田の網膜にはそれが「ツンデレ美少女の極上の蔑み顔」として極彩色で翻訳されている。ご褒美でしかなかった。
「素晴らしいぞAI殿! これならカプセルに引きこもるまでもなく、外の世界も全て拙者のエデン! さあ、我が聖域(自宅)へ帰還し、さらなるカスタマイズを施すでござる!」
ディストピアの監視と管理の道具を、配布された初日に「最強の美少女フィルター」として完全私物化した男。
織田はスキップを踏むような足取りで、狂ったように色彩の跳ねる脳内の楽園へと嬉々として溺れていった。彼らのような市民の圧倒的な「順応」こそが、この灰色世界の基盤を支えているのだった。




