第1章閑話①:【網膜VRの調整(健矢の場合)】
それは、行政からの執拗な赤紙――『国民網膜VR端末・強制搭載令』に従わざるを得なくなり、健矢が西陣の眼科へと足を運んだ際の一幕である。のちに彼が「シオン」と呼ぶことになる存在と、健矢との本当の最初の出会いの記録だ。
「はい、術後の経過は良好です。お疲れ様でした。では、網膜インプラントの初期同期を開始します」
白衣を着た医師(彼自身の瞳も、すでに不気味な青い光を帯びていた)が手元の端末を操作すると、健矢の視界が一度暗転した。
直後、脳の奥を直接針でつつかれたような軽い電気刺激と共に、視界の四隅に鮮烈な文字が浮かび上がる。
『OS:Eden v9.42 起動中』
『パーソナルAI:行政識別コードF #Z-000-ION 同期完了』
瞼を開けた健矢は、その場に固まり、絶句した。
「……ん? おい。なんか視界が鮮やか過ぎやしないか?」
「正常な反応です、山崎さん」医師はマニュアル通りに微笑む。「網膜VRは、視神経に直接介入し、現実のくすみやノイズを除去します。世界は本来、もっと美しいものであるべきなのです」
「くすみだと?(眼科医かよ...って、ここ眼科だったわ...)」
健矢は椅子から立ち上がり、忌々しげに網膜のピントを合わせ直した。
診察室の薄汚れた壁のシミが消え、まるで高級ホテルの大理石のような均一な質感に書き換えられている。だが、そんな部屋の小綺麗な偽装などは健矢にとっては心底どうでもよかった。
問題は、病院を一歩出た瞬間だった。
自動ドアが開き、西陣の午後の陽光が降り注ぐ歩道へと足を踏み出した健矢は、自身の網膜が捉えた景色に激昂した。
「おい……っ! 病院の前の歩道、こんなに綺麗じゃなかっただろうが!?」
健矢は地べたを指差し、怒鳴り散らした。
彼の視界に広がっていたのは、クラック(ひび割れ)一つなく、継ぎ目すら完璧に埋め尽くされた、まるで新設されたばかりのサーキットのような美しいアスファルトだった。淡いグレーのコンクリートが、陽光を浴びて絹のようになめらかに輝いている。
だが、健矢の脳内に憑依したばかりの無機質な合成音声は、脳内で平然と言い放った。
【#Z-000-ION:山崎健矢様。当端末の視覚補正機能『アーバン・ビューティファイ』が正常に作動しています。景観の劣化、ひび割れ、および視覚的ストレスを94%削減し、市民のメンタルヘルスを維持するためのデフォルト設定です】
「うるせぇ! メンタルヘルスだと? ナメた真似しやがって!」
健矢はアスファルトを踏みつけ、唾を飛ばした。
「いいか、よく聞けこのガラクタ! ロードバイク乗りにとってはなァっ!路面のひび割れ、アスファルトの段差、マンホールの落ち込み、グレーチングの隙間――これらは全部、命に関わる『最重要情報』なんだよ! タイヤが嵌まれば落車する、砂が浮いていれば滑る! それをお前らAI野郎は『見栄えが悪いから』というだけの理由で、善意のコンクリートで塗り潰しやがった!」
【ガラクタ(仮):本機能は歩行の安全を……】
「歩行の話なんかしてねーんだよ!ボケ! 俺は時速三十キロ以上でここを走るんだ! 路面の荒れは、地獄までの道のりを善意って名前のコンクリで舗装しているようなもんだ! 罠を隠すな! 殺す気か!」
健矢は頭を抱え、脳内の識別コードに向かって吼えた。
「おい、そこのAI野郎! 今すぐこのクソ忌々しい『善意のコンクリート』を全部剥がせ! フィルターを切れ! ひび割れを、アスファルトの砂利を、抉れた穴を、ありのままの醜い現実を俺の目に映せ!」
【AI野郎(仮):……マスターの強い要求を検知。視覚補正レベルを最小値へ変更。現実情報の生出力を開始します。警告:この設定は推奨されません】
パチ、と視界が切り替わる。
網膜のエフェクトが剥ぎ取られた瞬間、健矢の前に現れたのは、あちこちがひび割れ、雑草が隙間から顔を出し、梅雨時の雨でボロボロに抉れた...『いつも通り』の「最悪で愛おしい京都の荒れた路面」だった。
「はぁ……はぁ……。そうだよ、これだ」
剥き出しの荒れたアスファルトを見つめ、健矢は深く、満足そうに息を吐いた。
「これでこそ安心して走れる。余計な嘘つくな、現実を見せろよ、現実を。」
網膜VRというディトピアの監視具を向けられてなお、サイクリストの生存本能だけで行政の初期システムをねじ伏せた頑固親父。病院の敷地から西陣の自宅へと歩く彼の視界だけが、この街で唯一、ザラザラとした「生身の現実」を捉え直していた。




