第3話:【純白のF50、聖域の誕生】
最後の和音が西陣の古い梁に吸い込まれ、かすかな余韻が消えるまで、健矢は息を詰めるようにして聴き入っていた。
「……素晴らしい演奏でした、鈴木さん」
心からの言葉に、鈴木さんは少し照れたように微笑み、愛おしそうにギターのネックを撫でた。しかし、その手はかすかに震えている。
「ありがとう、山崎さん。この子もね、最後に生身の人間に聴いてもらえて、きっと喜んでいるよ」
「最後、ですか」
健矢の問いに、鈴木さんは静かに頷き、手元に残った冷めかけの珈琲を最後の一滴までゆっくりと飲み干した。そして、意を決したように言った。
「明日、行政の車が迎えに来る。私もいよいよ、あっちの『施設』に移ることになってね。七割の人間がもうカプセルの中で暮らしているんだ、八十六の老いぼれがいつまでも町家に一人で突っ張っている方が、不自然なのかもしれない」
鈴木さんの言葉は淡々としていたが、その奥にある深い諦念を、健矢は痛いほどに感じ取った。カプセルに入れば、脳内は常に最適化された幸福で満たされる。孤独も、老いの痛みも感じない。行政にとってはそれが「最も効率的な福祉」なのだ。
「それでね……」
鈴木さんは椅子から立ち上がると、使い込まれたギターを両手で抱え、健矢の方へと差し出した。
「この子を、ここに置いていかせてほしいんだ。カプセルの中には、こんな嵩張る木と鉄の塊は持っていけない。ただの『可燃物のゴミ』として処分されるくらいなら、山崎さん、君に持っていてほしい。君の淹れる珈琲の匂いが染み込んだこの店なら、この子も寂しくないだろうから」
健矢の胸に、熱く、重い塊が突き上げられた。
半世紀以上、一人の人間の人生に寄り添い、今しがた血の通った音を響かせたばかりの楽器が、あちらの世界ではただの「非効率な廃棄物」に分類される。その理不尽さが、健矢の頑固な芯を激しく揺さぶった。
「……分かりました。お預かりします」
健矢は両手で、ずっしりとしたギターを受け取った。表板の傷、長年の汗が染み込んだ指板の匂い。それはまぎれもない、一人の人間が生きた証そのものだった。
「ありがとう。これで、思い残すことはないよ」
鈴木さんは本当に安心したように笑うと、背中を少し丸めて、夜の帳が下り始めた西陣の街へと帰っていった。自動ドアが閉まり、チャイムの音が消えると、店には再び完全な静寂が訪れる。
時計の針は十八時前。
健矢は、託されたギターをカウンター奥の、最も日当たりの良い壁へと掛けた。白い壁に、深い飴色の木肌が鮮やかに浮かび上がる。
「よし」
気合を入れ直すように呟くと、健矢は厨房へ向かった。これからの過酷な夜間トレーニングに備え、肉体にエネルギーを叩き込まなければならない。
今夜の夕食は、あらかじめ仕込んでおいたパスタ。そして洋菓子。
昼のまかない用に用意していたものだが、夜の『カルテス・エッセン(火を使わない簡素な食事)』の前に、まずは強固な炭水化物と脂質のベースを体に敷く。少し多めの白飯を掻き込み、牛カルビ入りのコンビニおにぎりを口へ運ぶ。噛み締め、確実に胃へと送り込む。
さらに、食後のデザートとして濃厚なガトーショコラを一切れ。
(メシもので約五百五十、チョコレートで三百五十……計九百キロカロリー。これで夜のベースはできた。あとは走るだけだ)
十九時の閉店作業を終え、二階の自室へ上がると、健矢はウェアに着替えた。
部屋の隅に鎮座しているのは、彼のすべてであり、この狂った世界に対する最大の反逆のシンボル――純白のロードバイク、PINARELLI F50。
中嶋の大将から「お前の魂を乗せて走れ」と特別価格で譲り受けた、我が国が誇る最先端カーボン「TR700」を纏った極上のマシン。どこまでも白く、一切の無駄を削ぎ落とした有機的なフレームラインは、暗い部屋の中でも怪しいほどの存在感を放っていた。
「行くぞ」
健矢はF50を抱え、夜の静寂に包まれた西陣の街へと滑り出した。
ターゲットは、ここから北へと向かう峠道を含めた往復二十キロメートルの固定ルート。
ペダルを踏み込んだ瞬間、F50は驚異的な剛性で健矢の踏力をそのまま推進力へと変換し、夜の闇を切り裂いた。
ギチ、ギチ、とチェーンが鳴り、タイヤがアスリートの意志を帯びてアスファルトを捉える。
冷たい夜風が頬を打ち、肺が引き千切れるような勢いで酸素を欲する。心拍数は一気に百四十、百五十へと跳ね上がっていく。
(俺は生きている。画面の向こうの安っぽい幻覚なんかじゃない。この筋肉の痛み、この心臓の鼓動こそが現実だ)
背後には、誰もいない西陣の街。
しかし、健矢のカフェの壁には、今や一本のギターが確固たる意志を持って掛けられている。
行政がどれだけ街を灰色に塗りつぶそうとも、あの場所だけは、人間の血の通った「聖域」として、今確かに誕生したのだ。
健矢はさらにギヤを上げ、純白のF50と共に、暗黒の夜へと深く突き進んでいった。




