第2話:【16:30の延長期、ギターを背負った老人】
午後四時二十五分。
西陣の町家に設けたカフェのフロアは、すでに夕暮れの琥珀色に染まっていた。柱時計の針が刻む音が、やけに大きく店内に響く。
定時の閉店時刻は十六時三十分。結局、ランチタイムに数人、近所の顔馴染みがコーヒーを啜りに来ただけで、午後の大半は無人だった。
健矢はカウンターの中で、すでにピカピカに磨き上げられたエスプレッソマシンのレバーを見つめていた。いつでも落とせる。看板の照明を落とす準備もできている。
「……なー」
足元で、四歳の黒白猫・クロが退屈そうに鳴き、健矢のチノパンの裾に額を擦りつけてきた。その少し後ろの座布団では、十九歳の長老猫・リコが、薄暗くなった景色をただじっと、静かに見つめている。
「あと五分か」
健矢がそう呟いた、まさにその時だった。
カラン、と静まり返った店内に、古びたドアチャイムの音が優しく響いた。
引き戸を開けて入ってきたのは、仕立てのいい、だが随分と着古したツイードのジャケットを羽織った老人だった。鈴木さん(86)。この西陣の店に残された、数少ない、そして最も古い常連客の一人だ。
その背中には、まるで体の一部であるかのように、年季の入ったアコースティックギターのハードケースが背負われていた。表面のステッカーはどれも剥がれかけ、金具はすっかり鈍色に錆びついている。
「すまないね、マスター。遅くなってしまった」
鈴木さんは、申し訳なさそうに、だがいつもの穏やかな笑みを湛えて言った。息が少し荒い。ここまで歩いてくるだけでも、その細い足腰には相応の負担だったはずだ。
「いいえ、鈴木さん。ちょうど今、お湯を沸かし直したところです。特等席へどうぞ」
健矢は迷わず看板のスイッチから手を離し、そう言って微笑んだ。
十六時三十分。マニュアル通りの行政AIが管理する店なら、一秒の猶予もなく自動ドアをロックし、退店を促すだろう。だが、ここは健矢の店だ。
彼が「まだ開いている」と決めれば、そこは世界のシステムから切り離された緩やかな聖域になる。五分や十分の延長など、彼にとっては当然の裁量だった。
鈴木さんはいつもの窓際の席に腰を下ろし、背中の重いケースを丁寧に床へ置いた。クロが興味深そうにそのケースの匂いを嗅ぎにいき、リコは座布団の上からゆっくりと一度だけ瞬きをした。
「今日は、少し贅沢をさせてもらおうかな。いつものブレンドを、深煎りで」
「かしこまりました」
健矢は棚から最高品質の豆を取り出し、手動のミルに投入した。
ゴリゴリ、ゴリゴリ、と硬い豆が砕ける小気味よい音が、静かな空間を満たしていく。摩擦熱を極限まで抑え、豆の香りを最大限に引き出すためのアナログな作業。やがて、部屋いっぱいに香ばしく、どこか哀愁を帯びた珈琲の香りが立ち上る。
お湯を細く、円を描くようにドリップしていくと、新鮮な豆がふっくらと黒い泡を膨らませた。
「お待たせしました」
温めておいた厚手のマグカップに注がれた漆黒の液体が、鈴木さんの前に置かれる。
鈴木さんは愛おしそうにカップを両手で包み込み、その湯気を深く吸い込んだ。
「ああ……これだ。この匂いを嗅ぐと、自分がまだちゃんと、ここに生きている実感がするよ。液晶の画面越しじゃ、この温もりは絶対に伝わらないからね」
一口、ゆっくりと含み、鈴木さんはしみじみと目を細めた。
その表情には、珈琲の美味さを噛み締める喜びと同時に、どこか引き裂かれるような切なさが混じっているのを、健矢は見逃さなかった。
鈴木さんはカップを置くと、足元のケースのラッチをパチン、パチンと静かに外した。
現れたのは、半世紀以上も彼と共に旅をしてきたであろう、表板がピッキングの傷で削れたYAMADAのアコースティックギターだった。
「マスター、一杯の御礼に、少しだけ弾かせてもらってもいいかい?」
「ええ、ぜひ。特等席で聴かせていただきます」
健矢はエプロンをつけたまま、カウンターの椅子に腰掛けた。
鈴木さんの細く、節くれ立った指が、優しく弦に触れる。
ポロン、と 乾いた、しかし驚くほど深く澄んだ音が店内に響き渡った。
それは、かつてこの国が、この西陣の街が、もっとたくさんの人々の声と活気に溢れていた時代に作られた、古いフォークソングの旋律だった。鈴木さんの掠れた、だが温かみのある歌声が、琥珀色の空気の中に溶けていく。
効率や最適化という言葉で塗りつぶされる前の世界。人間が泥臭く、不器用で、だからこそ誰かと体温を分け合って生きていた時代の記憶が、ギターの六本の弦を通して、無人の客席へと染み渡っていくようだった。
クロは鈴木さんの足元で丸くなり、リコは耳をその音の方へと傾けている。
健矢はただ黙って、その贅沢な、そしてどこか儚い最後の生演奏に、じっと耳を傾けていた。
この話と次の話は「壊れかけのRadio/徳永英明」や「上を向いて歩こう/坂本 九」あたりを聞きながらチェック作業をするとかなり雰囲気を味わえました。是非お試しあれ!




