第1話:【8:00開店、あるいは新メニューという名のおやつ】
午前七時五十五分。格子戸から差し込む朝光は、まだどこか冷ややかだった。
山崎健矢は、使い込まれたリネンのエプロンを腰の低い位置できゅっと結び、カウンターの奥に立った。柱時計の古めかしい振り子が、規則正しく時を刻んでいる。
午前八時ちょうど。鍵を開け、通りに面した看板のスイッチを入れる。
「よし」
小さく呟いて息を吐く。だが、店内にその声が響く以外、何も起こらない。自動ドアのチャイムが鳴ることもなければ、足音が近づいてくる気配もない。
これが、この二年ほどの西陣の静かな町に佇むカフェにおける「朝の開店」の風景だった。
かつては職人たちの息遣いや、織物の音がどこからか聞こえていた西陣の町。しかし今、外の通りを見渡しても、歩いているのは行政の清掃ドローンか、味気ないガルバニウム鋼板の自動輸送カプセルばかり。
すでに全人口の七割が、自宅の『VRカプセル』に引きこもり、脳内に直接注ぎ込まれる幸福物質と完全栄養液で一日を完結させる生活を選び始めていた。実店舗に足を運び、わざわざ「咀嚼する」という非効率な行為を選ぶ人間は、街がジワジワと無機質に変わっていく中で、文字通りの絶滅危惧種になりつつあった。
「まあ、来ないわな」
苦笑いしながら、健矢は自分のために動き始める。客が来ないからといって、身体を錆びさせるわけにはいかない。
彼は厨房の奥で、朝のルーティーンである自分の食事を並べた。
メニューは質実剛健そのものだ。昨日炊いて余っていた冷やご飯を温め直し、香ばしく焼いた鮭、豆腐とワカメの味噌汁、そして小皿に盛った即席の漬物。朝の炭水化物はこれで十分だが、生身で活動し、夜間にロードバイクを駆る健矢の総摂取カロリーとしては、これだけではあからさまに足りない。
その不足分を補うのが、カウンターの端に置かれた小さな木箱だった。 健矢は食後、なじみの和菓子屋から仕入れた、ずっしりと小豆の詰まった大福を皿に乗せる。
(ご飯と鮭で約四百。大福で三百五十を上乗せして、まずは計七百五十キロカロリー……よし)
行政AIの配給ペーストとは違い、生身の職人が小豆から炊き上げた和菓子は、効率的なカロリー源でありながら最高のご馳走だった。健矢は無言で、しかし確実な足取りで大福を咀嚼し、胃へと落としていく。
パスタや洋菓子といった「まかない」は昼食に回すのが彼のルールだ。朝一番は、こうして慣れ親しんだ日本の食と和菓子でストイックにエネルギーを満たす。
食後、彼はカウンターの隅に目をやった。 そこでは、十九歳になるキジシロの長老猫・リコが、日当たりの良い特等席で大人しく丸くなっている。
健矢の指先がその背中に触れると、白混じりの顎を微かに揺らして「るる……」と低く喉を鳴らした。 そのリコのベッドの脇から、ひょっこりと顔を出したのは、まだ四歳になる黒白猫のクロだ。
クロは若い肉体らしい生命力に満ちた動きで、リコの毛並みを気遣うようにペロペロと舐め、それから健矢の足元にすり寄って「なー」と甘えた声を上げた。
この二匹の猫たちの体温と、まだ三割の人間が足掻いている西陣の街の気配。それだけが、店内に残された数少ない「生身の現実」だった。
生身の人間として、今日もこの世界で正気を保ち続けるために。 誰も来ない空間で、健矢はただひたすらに、自らの肉体を維持するための咀嚼を続けていた。




