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VRドームの家畜になり損ねた30代独身カフェマスター、心拍数188の限界突破ドライブが全世界に生配信され、愛車のペダリングデータだけで国家予算級のおちんぎんを稼いでしまう  作者: 蒼波8
第11章(第2部第1章)【結愛の愛車】

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第42話:【専用ウェアが必須すぎた件(怖)】

東洞院六角に佇む『サイクルショップGIRO中嶋』。


通常であれば店じまいをする時間帯であったが、夕闇に沈む街の中にあって煌々と店内を照らすホワイトLEDの光が窓から漏れている。閑静を極めたディストピア京都の鉾町の中でありながら、旧厚生労働省....或いは国内筆頭広告代理店のオフィスビルが如き不夜城であるかのようにその存在感を放っていた。


「そもそも、普段着でロードとか.....アホか、速攻で地獄を見るぞ」


「……え?」


健矢の一言に、結愛はぽかんと口を開けた。


「え、えぇっ!? 地獄って……服ですよ!? 動きやすくて汚れてもいい服なら、普段着のジャージでもスウェットでも何でも良くないですか……?」


「ハッ、これだから素人は恐ろしいねぇ」


店内奥の作業場から、黒ずんだ綿の油拭きウエスで手についたグリスを拭いながら、頑固店主の中嶋が鼻で笑いながら歩み出てきた。偏屈そうな白い眉を吊り上げ、結愛を上から下までジロリと見分ける。


「嬢ちゃん、ロードバイクってのはな、ママチャリで近所のスーパーに豆腐買いに行くのとはワケが違うんだよ。健矢、叩き込んでやれ。このまま普段着で乗せたら、明日の今頃には泣きついてくるぞ」


「言われなくてもそのつもりだ」


健矢はカウンターの縁に肘をつき、心底あきれたように吐き捨てた。


「結愛。お前、ロードバイクに乗るってことがどういう運動か、根本的に勘違いしてる。ロードに乗る上で人間を襲う『三大エネミー』が何だか分かるか?」


「えっと……交通事故と、パンクと、迷子……ですか?」


「全部違う。『熱』と『汗』と『衝撃』だ」

健矢は指を一つずつ折り曲げながら、噛み砕くように語り始めた。


「まず一つ目、吸汗速乾性だ。お前が着ようとしてる綿のTシャツやスウェットってのはな、汗を吸うと重くなり、いつまでも湿ったまま肌に貼り付く。夏場何かは特にだが..... 走ってる最中はまぁいい。


だがな、峠を登り切って汗だくになった後、時速四十キロで下り坂を風切って下ってみろ。濡れた綿服は一気に体温を奪う『冷却パック』に化ける。夏場でも一瞬で極寒の冷えに襲われて体力が根こそぎ削られるんだよ」


「ヒッ……冷え……」


「二つ目、グローブだ。素手でハンドル握って走る気か? 路面からの微振動ってのは、じわじわと手の掌の神経を麻痺させる。一時間も走れば指先が痺れて、ブレーキレバーを握る握力すら失うぞ?上腕筋まで馬鹿になるっておまけ付きでな。それに……万が一コケた時、人間が真っ先に突くのはどこだ?」


「手……です」


「そうだ。アスファルトに時速三十キロで素手を突いたらどうなる? アスファルトのヤスリで手の平の皮が全部持っていかれる。グローブはただの防寒具じゃねぇ。落車時に皮を守るための『アーマー』だ」


結愛は自分の手のひらをキュッと握りしめ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「そして三つ目……これが一番致命的だ。パッド(サイクルパンツ)だ」


健矢は展示されている試乗車のPINARELLI F70の細く硬いサドルをトン、と指先で叩いた。


「この硬く引き締まったサドルを見ろ。クッションなんて無いに等しいだろ? この上に、お前の体重が全部かかる。しかもママチャリみたいにどっかと座るんじゃなく、前傾姿勢で何時間も、何千回も股ぐらを擦りつけながらペダルを回し続けるんだ。普段使いの綿パンツごときでそれに耐えられると思うか?」


ここで、脇で腕を組んでいた中嶋が雷のような大声を張り上げた。


「その通りだ! うちでいくら最高級のイタリアンバイク組んだってな、フレームに何百万かけたってなぁ....! 乗る奴の股ぐらが痛みに耐えかねて壊れたら、自転車なんざ一メートルも前に進まねぇんだよ! ウェアはファッションじゃねぇ、走るための歴としたパーツだ!」


二人の迫力に圧倒され、結愛はタジタジと後退りした。 網膜VRの視界端で、結愛の個人管理AI・イズミが「うわぁ……」と頭を抱えているホログラム影が見える。


「い、いずみさん……ロードバイクって、服を着るだけでもそんなに大変なんですか……?」


「結愛ちゃん……お二人の言っていることは、ぐうの音も出ないほど正論です……。ロードバイクのウェアは、科学的に計算された『機能性スポーツギア』なんです……」


「いいか結愛。服を舐めた奴がどんな惨劇を迎えるか、俺がサラリーマン時代に取引先で聞いた実話を教えてやる」


健矢はどこか遠い目をして、低い声で語り始めた。店内の照明が心なしか暗くなったように錯覚するほど、その空気は一気に重々しいものへと変わる。


「昔、俺の取引先にいたトラック運転手の話だ。元スポーツマンでな......筋骨隆々で、腕っぷしにもスタミナにも絶対の自信がある体力自慢の男だった。ある日、友人に『サイクリングいこうぜ!』って誘われたんだよ。で、『たかが自転車だろ』と高を括って普段着の綿のボクサーパンツにスウェット姿で、丸一日ロードバイクを乗り回したんだよ」


結愛は唾を飲み込み、健矢の顔を見つめる。


「最初は調子よく走ってたさ。だが、真夏の猛暑だ。大量の汗が綿パンに染み込み、塩分と汗で湿った布地が、固いサドルと皮膚の間に挟まる。クランクが1回転するたびに、激しい摩擦が発生する……。最初は『ちょっとピリピリするな』程度だったらしい」


健矢の目が鋭く光る。


「だが、走り終わって家に帰り、シャワーを浴びようとスウェットを脱いだ瞬間……そいつは絶叫した」


「ぜ、絶叫……!?」


「汗と摩擦、サドルとの激しいスレによってな……ケツの皮が全部いかれて、真っ赤な生肉が剥き出しになってたんだよ。 痛みのあまり風呂にも入れず、当然まともに座ることもできねぇ。結局、痛みが引き切るまでの丸一ヶ月間.......本業であるトラックのシートに腰掛けることすらできず、仕事を休む羽目になった」


健矢は結愛の目をじっと見据え、ドスの利いた声で追撃した。


「お前、アイドルの皮膚をそんな目に遭わせたいか? あ? 事務所の大切な商品だろ?」


「ヒッ……! 嫌、嫌ですぅぅ!!」


あまりの恐ろしさに、結愛は自分のお尻を両手でキュッと押さえつけ、顔面蒼白でブルブルと震え出した。


「ふん、健矢の話は脅しでも何でもねぇぞ」


中嶋がウエスを肩に掛け、苦々しい顔で鼻を鳴らす。


「うちの店にも昔いたよ。『たかが自転車だろ』って舐めた態度のまんま普段着で走って、途中で股擦れを起こして泣きながら駆け込んできたバカがな。『痛くてサドルに座れません!』って言ってきた時にはもう遅い。サドルからフレームまで、そいつの血でべったり染まってたんだ。あの血汚れを落とすのがどれだけ大変だったか……」


「ち、血だらけぇぇぇ!?」


「補足いたします」


突如、健矢の網膜VR領域から冷徹なシオンの音声が割り込んできた。いつもの淡々とした合成音声が、冷酷な現実として結愛の耳に届く。


『人間工学および皮膚摩擦係数の算出データによりますと、綿製の下着を着用した状態で専用パッドなしでロードバイクに搭乗し、100km走行した場合における臀部表皮の剥離率は94.2%に達します。これは怪談ではなく、単なる物理現象です。怠慢のツケは、そのまま表皮の欠損として支払われます』


「きゅ、94.2パーセントぉぉぉ!? か、皮が全剥げ……!? 嫌です嫌です! 絶対専用ウェア買います! お願いですから買わせてください!!」


涙目になって叫ぶ結愛。 その姿を見かねたように、イズミがふわりと結愛の肩を優しく抱き寄せた。まるで傷ついた子羊を包み込む聖母のような笑みを浮かべている。


「大丈夫ですよ、結愛ちゃん♪ 健矢さんも中嶋さんも言い方はちょっぴり乱暴ですが……結愛ちゃんに痛い思いをしてほしくないという、深〜い優しさから言っているんですからね〜?」


クスリと微笑むイズミ。その言葉を聞いた瞬間、健矢と中嶋の二人はピクッと眉を跳ね上げ、顔を真っ赤にして同時に怒鳴り散らした。


「「余計なこと言ってねぇで、とっととウェア選べ(や)!!」」


見事なハモりを見せる師匠と頑固店主。照れ隠し丸出しの罵声に、イズミは「はいはい♪」と楽しそうにクスクスと笑った。


しかし、腹をくくってウェアのラックへと向かおうとした結愛だったが、ふと立ち止まり、モジモジと指先を突き合わせ始めた。


「あ、あの……買います、絶対に買うんですけど……」


「あ? なんだよ、まだ何か文句あんのか?」


「そうじゃなくて……あのピチピチした、モジモジくんみたいな服(レーサーパンツ)……私、お店で買って着るの、ちょっと恥ずかしいです……。だって、体のラインがハッキリ出ちゃいますし……」


シュンと首をすくめる二十六歳の若い女性らしい素直な抵抗。 そんな結愛に対し、中嶋はフンと鼻を鳴らすと、店内奥のカーテンで仕切られたスペースを親指で指し示した。


「心配すんな。奥にちゃんと女性用コーナーと試着室がある。ピチピチが気になるなら、上から穿けるカジュアルなショートパンツなんかもあるぞ。……いいか嬢ちゃん、恥ずかしがってる場合か! 自分のケツの皮を死守するんだよ! ほら、行くぞ!」


「は、はいっ! ケツの皮、死守します!!」


中嶋の威勢の良い掛け声に引っ張られるように、結愛は奥のウェアコーナーへと足を踏み入れていく。 恐怖を乗り越え、ついに「サイクリストの鎧」を手に入れるための選択が、今始まろうとしていた。

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