第41話:【ヘルメットはケチるなかれ】
「はぁ……はぁ……っ! これで……本当に私の相棒が決まったんですね……!」
東洞院六角『サイクルショップ GIRO』の作業ピット。
地獄のようなフィッティングを乗り越え、完璧にポジションの出たチェレステ色の『Mirano 7』の横で、伏見結愛(二十六歳)は額の汗を拭いながら感無量の吐息を漏らした。
一度ポジションが決まれば、ペダルを踏み込むたびに車体が勝手に前へ進むような強烈な一体感。
愛車を手に入れた喜びで、結愛の瞳はきらきらと輝いていた。
「よしっ、健矢さん! これで買い出しも教習もバッチリです!」
「バカ言え」
安堵する結愛に対し、山崎健矢(三十六歳)は冷酷に言い放った。
エプロンを脱いだ私服姿のまま、腕を組んでピットの壁を顎でしゃくる。
「まだ、次がある」
「えっ……!? 次って……車体は決まりましたよね!?」
「車体だけ買って路上に出る気か? ……おい大将、メットだ」
健矢の言葉に、中嶋の大将が「待ってました」とばかりに作業グローブをパンと鳴らした。
「そいつはうっかりしてたな! お嬢ちゃん、ロードバイクに乗るなら頭の防具は絶対だぞ!」
「ヘルメット……ですか?」
結愛は首をかしげる。
スマートシティ化が完璧に推し進められたこの時代にあっても、道路交通法における自転車ヘルメットの着用は「努力義務」のまま留まっている。
シティサイクル(ママチャリ)に乗っていた学生時代の感覚からすれば、被っていない人間の方が圧倒的に多いくらいだった。
「あの……努力義務なら、最悪なくても……」
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ」
健矢は歩み寄ると、結愛の頭をポコンと拳で軽く小突いた。
「ママチャリや、あの重いTEDで時速十五キロ出して買い出しするのとは、スピードレンジが根本から違うんだよ。そいつ(MIRANO7)は平地でもあっさり時速三十キロ以上出る。お前みたいなひよっこでもな」
「じ、時速三十キロ……!?」
「車体自体が劇的に軽くなり、乗り方も前のめりの前傾姿勢に激変する。その速度で落車してみろ。頭からアスファルトに叩きつけられたら、人間のド頭なんて”潰れたトマトみてーに”一発で弾け飛ぶぞ」
「つ、潰れた....トマト……っ!?」
あまりに生々しくエグい例えに、結愛の顔から一気に血の気が引いた。
「だからヘルメットはケチるな。サイクリストにとって、車体と同じくらい妥協しちゃならん『命の安全装置』だ」
「……とはいえ、健矢」
中嶋の大将が店舗の中央、壁一面を天井まで埋め尽くしているヘルメット展示コーナーのカーテンを引き開けた。
「車体選び以上に、ヘルメットのラインナップの数はチェレステの比じゃねえぞ。メーカーごとに頭の型(アジアンフィット/グローバルフィット)も違えば、安全機構の規格も様々だ。お前、どう絞り込む気だ?」
そこに広がっていたのは、まさに「防具の山」だった。
KSK、オジカ、Jiro、METT、そしてLAZ……。
数多のブランドから出されている無数のカラーと形状のヘルメットが、壁一面で結愛を見下ろしている。
「あ、あはは……ビアンコの車体より選択肢が多くありませんか……?」
圧倒的な物量に、結愛は再び目を回してクラクラとよろめいた。
だが、健矢は最初から迷う余地など残していなかった。
ヘルメットの膨大なラインナップを知り尽くしている健矢は、間髪入れずに大将へ告げる。
「大将、『MIPSがついたやつ』と、『LAZ』を出してやってくれ」
「分かってんじゃねえか健矢ぁ! 安全重視のMIPSと、ベルギーの名門LAZだな!」
大将が棚から手際よく箱をいくつか引っ張り出してきた。
『結愛ちゃん、網膜VRに安全機構の解説を展開します』
脳内でイズミの有能ボイスが響き、目の前にヘルメットの透過3Dモデルが浮かび上がった。
『MIPSとは、ヘルメットの内側に特殊な低摩擦シートを挟み込む技術です。転倒時に斜めからの衝撃を受けた際、このシートが数ミリ滑ることで、脳へ伝わる有害な「回転衝撃」を逃がしてくれるスゴイ安全機能なんですよ♪』
「へぇ……! 頭を護るための技術も、そんなに進んでるんですね……」
「能書きはいいから被れ。ヘルメットは頭の形に合わなきゃ意味がねえ」
健矢に促され、結愛は大将が出してきたMIPS搭載モデルを片っ端から試着し始めた。
しかし――MIPS搭載モデルだけに絞ったとしても、選択肢は膨大だった。
ダイヤルを絞め込むとこめかみが痛むもの、前頭部が浮いてしまうもの、見た目がキノコのように膨らんで見えてしまうもの……。
「うぅ……頭が締め付けられて痛いです……。これも駄目、これも何だかしっくり来ない……」
「頭の鉢が張ってるんだな。外国製のグローバルフィットだと横幅が狭いんだろ」
何十個ものヘルメットを被り直し、すっかり目を回してヘトヘトになった結愛は、藁にもすがる思いで健矢を見上げた。
「あ、あの……健矢さん! 健矢さんは、どこのメーカーのヘルメットを使ってるんですか!?」
「あ? 俺か? 俺はLAZだ。昔からな」
「じゃあ私、LAZにします! 健矢さんが使ってるメーカーなら、絶対に間違いないです!」
「おいおい、俺の好みで選ぶなよ……」
健矢は呆れ顔で頭を掻いたが、結愛の決心は固かった。
大将がニヤリと笑い、「なら、LAZの中で女性に一番人気のモデルがあるぞ!」と箱を開けた。
手渡されたのは、LAZが誇る最新のプロテクション技術を搭載した、スリムでエレガントなシルエットの女性人気モデルだ。
頭を包み込むアジャスター(ターンシス)をダイヤルで締めこむと、どこにも嫌な圧迫感がなく、吸い付くように結愛の頭部にフィットした。
「……あ! すごい……! 全然痛くないし、すごく軽いです……!」
「鏡見てみろ。見た目もキノコにならず、すっきり収まってるだろ」
鏡に映った自分の姿を見て、結愛はパッと表情を明るくした。
チェレステの差し色が控えめに入ったデザインは、先ほど選んだ『MIRANO 7』とも完璧に調和している。
「私……これにします! これが私のヘルメットです!」
「決まりだな」
健矢は短く言い捨てると、壁の時計を見上げた。
すでに窓の外は夕暮れを過ぎ、東洞院六角の通りには街灯が灯り始めている。
「よし、シオン。精算だ」
『了解いたしました。使途不明金プロトコル発動。ヘルメット代金もマスターの管理口座より一括決済完了いたしました』
「えっ!? 健矢さん、ヘルメットまで……! 本当にありがとうございます!」
「勘違いするな」
健矢はポケットに手を突っ込み、ぷいと横を向いた。
「お前に頭割られたら、明日からの買い出しと教習のスケジュールが全部狂うから払っただけだ。……(※言うまでもなく、配信で貯まりまくった天文学的な余剰クレジットを消化したかっただけである)」
結愛はぴったりとフィットしたヘルメットのあご紐を、カチッと心地よい音を立てて締め直した。
「さあ……車体とヘルメットは揃ったぞ」
健矢が意地悪く口角を上げる。
「だが、これで終わりと思うなよ? ……夜はまだ....これからだ☆」
「え……? 夜……?」
「ライト、鍵、ウェア……サイクリストの買い物ってのはな、ここからが......本当の『沼』だ」
絶望に目を見開く結愛と、不敵に笑う健矢、そして「まだまだ夜は長いぞ~!」と豪快に笑う中嶋の大将の声が、夜のピットに響き渡った。
「潰れたトマト」聞き覚えのある人は恐らく同世代だと思います!




