第40話:「今日からチェレステ!(下)」
「こ、こんなに種類があるんですか……!? どれがどれだか全然分かりません……!」
東洞院六角『サイクルショップ GIRO』の最深部。
作業ピットの奥に展開されたBianco特設コーナーの前で、伏見結愛(二十六歳)は圧倒されて立ち尽くしていた。
壁一面、そして天吊りのラックにまで整然と並べられたパステルブルー――「チェレステ」の群れ。
レーシングフラッグシップの『OL』
軽量ヒルクライム機の『SP』
ロングライド用の『IF』
グラベルロードの『IP』
そしてイズミと同系統の街乗りクロスバイク『ROMA12(在庫限り)』『A SPORT1~3』まで。
同じ天空色を纏いながらも、細部の太さも、フレームの屈曲も、ホイールのリムハイトも全く異なる異形のマシンたちが、薄暗い店舗のピットライトを浴びて鈍く輝いていた。
「……そりゃそうだ。チェレステってだけで頭が一杯になってりゃ、この物量に潰される」
隣で腕を組み、冷ややかな視線を向けるのは山崎健矢(三十六歳)だ。
健矢は西陣からの道中、結愛が「イズミちゃんとお揃いのビアンコがいい」と宣言した瞬間から、選ぶべき車種をひとつに絞り込んでいた。
確かに結愛は、この一年間の「重いクロモリランドナーでの大根・古漬けピストン輸送」と、イズミの徹底した栄養管理によって、スマートシティ化前の一般的な自転車通勤者に匹敵する基礎体力を取り戻した。
だが、それはあくまで「日常の運動量」の話だ。
サイクリストとしての結愛は、依然として完全な「ひよっこ」でしかない。
集団走行の作法も知らなければ、落車の恐怖も、ビンディングペダルで立ちゴケする惨めさも知らない。
何より、大阪と京都を結ぶロードバイクの登竜門――「淀川サイクリングロード(通称:淀サイ)」にそびえ立つ凶悪な車止め、通称『メタルクワガタ』の残酷なすり抜けすら経験していないのだ。
いきなり数十万から数百万もする高剛性カーボンフレームに乗せたところで、ペダリングの癖で膝を壊すか、最初の立ちゴケでフレームをクラックさせて泣きを見るのが目に見えている。
健矢は呆然とする結愛をスルーし、油まみれの手拭いを首にかけた中嶋の大将に向かって、短く言い放った。
「大将、MIRANO7(ミラノ・セッテ)を出してやってくれ」
「みらの……せって?」
結愛が首をかしげる。大将は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにニヤリと口角を上げた。
「ほう! 健矢、そいつで行くか!」
「当たり前だ」
健矢は手近なMIRANO7のトップチューブをコンコンと指の関節で叩いた。
「Biancoの発祥の地――ミラノの名を冠した、伝統のアルミエンデュランスモデルだ。前傾姿勢が比較的緩やかで、腰や首を痛めにくい。フレームもアルミで頑丈!どれだけラフに扱っても、ちょっとやそっとじゃ壊れねえ。今のこいつに一番必要なのは、繊細な高級カーボンじゃなく、転んでも倒しても平気なタフな相棒だ」
「た、倒す前提なんですか!?」とパニックになる結愛に、健矢は容赦なく言い捨てる。
「ビンディング履いたら最低三回は倒れる。そういうもんだ。……だが、大将。MIRANO7(ミラノ)を出して『はい終わり』とはいかねえんだろ?」
「ガハハ! 当たり前だろ健矢!」
中嶋の大将が腕まくりをして、店の最奥の中古・型落ちストックヤードへと向かった。
「うちの在庫を舐めてもらっちゃ困るぜ! ミラノなんて超定番、年式もコンポもサイズも、状態の良い中古から新古品まで山ほど揃ってんだ! アルミの肉厚も、フロントフォークがフルカーボンかアルミカーボンかでも乗り味はまるで別物だ! さあお嬢ちゃん、固定ローラー台に跨がれ! 地獄のフィッティングの始まりだ!」
引き出されてきたのは、見た目は同じチェレステ色でありながら、フレームサイズ(44、46、47、50)も、ステム長も、組み込まれたコンポーネント(SR、Tiar、106、GR)も異なる四台の『MIRANO 7』だった。
「え、ええぇっ!? 車種が決まっても、こんなに試すんですか!?」
「当たり前だ。ミリ単位のフィッティングをケチると、五十キロも走りゃぁ膝と腰が死ぬんだよ」
健矢に背中を突かれ、結愛は怯えながら固定ローラー台にセットされた一番手前のMIRANO7へと跨がった。
「ほら、ペダル回せ! 回しながら力を抜け!」
中嶋の大将の太い声がピットに響く。
結愛は必死にペダルを回すが、太ももと腰に嫌な張りが走る。
「ストップ! サドル高が三ミリ高い。あとステム長すぎだな...前傾が強すぎる」
大将が六角レンチを手際よく動かし、サドル位置とハンドル高を微調整する。
『結愛ちゃん、バイタルおよび関節角度のデータを解析中。右膝の軌道が内側にコンマ五度ブレています。骨格に対してクランク長が僅かに長い可能性があります』
網膜VR越しにイズミの冷静な有能ボイスが飛ぶ。
健矢もまた、作業ピットの横で厳しい眼差しで結愛のペダリングを見つめていた。
「左の骨盤が落ちてるぞ、結愛。ランドナーんの時の癖で、重い荷物をかばう踏み方になってる。……大将、次はサイズ46の106仕様(11速モデル)に付け替えてくれ。ステムは80ミリだ」
「あいよ!」
二台目、三台目。
サドルに跨がり、六角レンチでミリ単位の調整を受け、ペダルを回し、汗を流す。
「もう脚が上がりません……」と結愛が音を上げそうになったその時――四台目、2020年代初頭の型落ち美品『MIRANO 7 (S社 106仕様)』に跨がり、ペダルを踏み込んだ瞬間だった。
「――っ!?」
重さが、消えた。
これまで TED で感じていた鉄の重厚感とも、先ほどの三台で感じていた引っかかりとも違う。
まるで、自分の足の骨がそのまま車体フレームへと延長されたかのような、恐ろしいほどの一体感。
ペダルを下に押し出すだけで、車体が吸い付くように前へ進もうとする感覚が、結愛の全身を突き抜けた。
「……どうだ、お嬢ちゃん」
中嶋の大将が、満足そうに六角レンチをポケットに仕舞いながら尋ねる。
「すごいです……! 私の足が……全然痛くないのに、ペダルが勝手に回ります……!」
「決まり、だな」
健矢がフッと鼻から息を抜き、口角を上げた。
「お前の骨格と、この一年でTED を漕ぎ倒して作った筋肉に、ドンピシャの一台だ」
結愛はハッと息をのみ、愛おしそうにそのチェレステ色のトップチューブを撫でた。
完璧に磨き上げられたパステルブルーの塗装。イズミの乗るROMA12と同じ、憧れの天空色。
「健矢さん……私、この子にします! おいくらですか? 私、貯金から払います!」
結愛が慌てて財布を取り出そうとすると、レジ奥の端末から「ピコン」と軽快な決済完了音が響いた。
『使途不明金プロトコル、決済完了いたしました。提示金額全額、マスターの管理口座より一括引き落とし済みです』
シオンの無機質な音声が、店内のスピーカーから虚しく響く。
「えっ……? け、健矢さん!?」
「言ったろ。『俺が奢ってやる』ってな」
健矢は視線をそらし、ポケットに手を突っ込んだ。
(※言うまでもなく、健矢の管理口座の中で完全に死に金と化していた、DJ配信などの天文学的な裏クレジットを消化しただけである。)
「そんな……こんな高価なロードバイク、タダでもらうわけには……!」
「タダじゃねえよ」
健矢は振り向き、店から引き出された鮮やかなチェレステ色の『MIRANO 7』のハンドルをぽんと叩いた。
「その代金は、これから走りで返してもらう。……明日からが本当の教習(実走)だ。覚悟しておけよ、ひよっこ」
「健矢さん……! はい! よろしくお願いします!」
夕暮れの東洞院六角。
沈みかける太陽の光を浴びて、結愛の目の前で「チェレステの翼」が鮮烈に輝いていた。
Mirano7は元ネタの車種同様、1~6とか8はありません。ブランド創業の番地7まで含めて車種名なのです。




