第39話:「今日からチェレステ!(上)」
午前八時ちょうど。
西陣の狭い路地に、古めかしい格子戸が開き、カラコロという木鈴の音が響いた。
朝日を浴びてカフェ『アルカディア』の土間に滑り込んできたのは、重厚な深緑色のフレーム――ARARA TEDだ。
フロントキャリアと頑丈なリアキャリアを備えたそのランドナーの足元には、朝の光に洗われた泥除けが静かに誇らしく鈍色を弾いていた。
リアキャリアには、ロープでガチガチに縛り上げられた段ボールと竹籠。
そこから顔を覗かせているのは、土のついた大振りの聖護院大根と、堀川松原の『井口漬物店』から運んできたばかりの重厚な古漬けの樽だ。総重量は軽く十キロを超えている。
「ふぅ……っ! ただいま帰りました、健矢さん!」
ヘルメットを脱ぎ、額の汗を手の甲で拭ったのは伏見結愛、二十六歳その人である。
一年前、カプセル都市の無菌室から引きずり出された頃の、透き通るほど白くスカスカだった身体つきはそこにはない。毎朝の泥臭いピストン輸送と脚取りの復元作業を経て、薄手のネルシャツの袖から覗く前腕には、しなやかな筋が走っていた。
『バイタル確認。筋力、心肺機能ともに、西暦二〇二〇年代における「自転車通勤を行う一般的な二十六歳社会人女性」の平均値に到達しました。完熟イチゴミルク味プロテイン投与計画、フェーズ1完了です♪』
脳内に届いたイズミの有能ボイスに、結愛は苦笑する。
「ありがとうございます、いずみさん。……でも、本当にイチゴミルク味しか選べないのはちょっと厳しいですけど」
「文句を言うな。吸収効率だけで選んでるんだからな」
カウンターの奥から淹れたての珈琲カップを手に山崎健矢(三十六歳)が歩み出てきた。結愛が運んできたTEDのリアキャリアを一瞥し、フッと鼻から息を抜く。
「大根の葉も折れてねえし、漬物汁の漏れもなし。……フン、少しはサドルに乗る格好がついくたじゃねえか」
「本当ですか!? 井口の大将にも褒められたんですよ!」
えへん、と胸を張る結愛。だが健矢は珈琲を一口啜ると、冷ややかな声で短く告げた。
「で? いつまで俺の機材を占有するつもりだ? ボチボチそのTED、返してくれや」
「ええっ!? か、返してって……どうしてですか!?」
結愛の表情が一瞬で凍りついた。慌てて深緑のTEDのサドルにしがみつく。
「私、何か失敗しましたか!? 大根も傷つけてないし、ルートも指定通りです! これがないと明日の買い出しも行けなくなっちゃいます!」
「行かなくていい」
健矢は素っ気なく言い捨てると、エプロンの紐を解いてカウンターのフックへ雑に掛けた。
「最初に言ったと思うが、そいつはリハビリ用の『貸与品』だ。パニア対応のキャリア積んで大根運ばせるために貸したわけじゃねえ。いつまでもランドナーで大根運んでたら、それはサイクリストじゃなくてただの配送業者だろ」
「配送業者って……そんな……!」
落胆する結愛を見下ろし、健矢は意味深に口角を上げた。
「着替えろ。俺が奢ってやる。中嶋さんとこ行くぞ」
「中嶋さんのところ……東洞院六角の『GIRO』ですか? でも、今日はお店の営業が……」
健矢は返答代わりに黒い木製看板を外へ引っ張り出すと、太いチョークで大きく書き殴った。
【本日 臨時休業】
「ええっ!? 店を休むんですか!?」
「当たり前だ。愛車選びを買い出しのついでに済ませられるか。半日潰す覚悟で行くぞ」
カフェ『アルカディア』が健矢の都合で突発的に臨時休業することなど、この一年間で一度もなかった。健矢はこの「生身の愛車選び」という儀式に重い意味を置いているのだ。
「シオン、留守番とクロの飯、頼んだぞ」
『了解いたしました、マスター』
「荷物は降ろせ。……おい結愛、西陣から六角まで歩く気か? TEDに乗って自分の足でついて来い。イズミは後からTEDの回収にタクシーで来てくれ。」
「えっ……乗っていっていいんですか!?」
「最後だ。……俺もF50を出す」
◇
午前九時三十分。
西陣の路地から堀川通へ。純白のPINARELLI F50を駆る健矢の後ろを、結愛はTEDのペダルを回して追っていた。この一年間で鍛え上げられた脚は、健矢のが流すペースにしっかりとついていける。
「あの、健矢さん……! 私、欲しい自転車のメーカー……もう決めてるんです!」
風を切る音に交じって、結愛が後ろから声を張り上げた。健矢はバックミラー代わりに振り向かず、短く応じる。
「ほう。どうせ見た目から入ったんだろ」
「違います! ……イズミちゃんが乗りこなしてるROMA12と同じ、Biancoがいいんです! イズミちゃんとお揃いの、綺麗なチェレステに乗って走りたくて……!」
「……フン。Biancoか。中嶋の大将がめっちゃ喜びそうな選択だな」
健矢は苦笑しつつ、東洞院六角の交差点を曲がった。
目指す目的地――『サイクルショップ GIRO』の看板が見えてくる。
二人が店前に自転車を止めると、平常通り営業している店内からカウベルの音とともに、油まみれの手拭いを首にかけた中嶋の大将が顔を出した。
「おう! 健矢! カフェ休んでまで来やがったか!」
大将は豪快に笑いながら結愛に近づき、その脚と背筋のラインを鋭い職人の目で一舐めした。
「ほお……! 見違えたな、お嬢ちゃん! 最初に見た時とは大違いだ! 毎日TEDで大根運んだ甲斐があったなぁ!」
「中嶋さん! 私、今日……イズミちゃんとお揃いの、チェレステに乗りたくて来ました!」
結愛がまっすぐな瞳で宣言すると、中嶋の大将は一瞬目を丸くし、次の瞬間ガハハと破顔した。
「よく言ったお嬢ちゃん! Biancoのチェレステか、最高の選択だ! ……だがな、そう簡単に行くとォ思うなよ!」
大将が店舗の奥の展示コーナーのカーテンをシャッと開けた。
そこには、同じ「チェレステ」の塗装を纏いながらも、全く異なるフレーム形状を持った数々の自転車群が並んでいた。
「チェレステ一色と言ったってな、フレーム形状もサイズも、それからこの車種の豊富さ....!乗り手の骨格と用途で千差万別なんだよ! 年式ごとのジオメトリの違い、一ミリのサイズ設定で天と地ほど変わる! 今日は日が暮れるまで、お前さんの体にカンペキに馴染む一台をこの山から絞り込むぞ~~~!」
ずらりと並ぶ天空色のフレームを前にして、結愛は圧倒されながらも、胸の奥から湧き上がる高揚感に小さく息をのんだ。
(これが……私の新しい相棒……!)
「ボーッとするな、結愛。フィッティングの地獄はこれからだぞ。」
健矢の意地悪な声と中嶋の大将の豪快な笑い声が、油の匂いに満ち満ちた店舗の中に響き渡った。




