第37話:【井口の頑固なスープ】
「……よぅ、健矢。そいつが例の『脱走ネズミ』か?」
丸太町通から堀川通へと入り、さらに一本細い路地へと折れた先。古い町家の軒先に「井口漬物店」と染め抜かれた色褪せた暖簾が揺れている。
店の前に TEDを滑り込ませ、文字通りサドルの上から崩れ落ちるようにしてコンクリートの地面にへたり込んだ結愛を、一人の細マッチョな中年男が見下ろしていた。
少し白髪が交じりだした短髪に、分厚い前掛けを締めた頑固そうな顔立ち。その手は、長年冷たい樽の水でカブや大根を揉み続けてきたことを物語るように、節くれ立って赤黒く日焼けしている。彼こそが、健矢の言う抵抗者仲間、井口だった。
「そうだ」
健矢はスマートな F50から軽快に降り、手際よく漬物店の壁に立てかける。
「西陣の店からここまで、たった数キロでこのザマだ。ドームの培養液で育った筋肉なんざ、所詮は張り子の虎だな」
「はぁ、はぁ……っ、うぅ……」
結愛は喉の奥からヒューヒューと苦しげな音を立てながら、額の汗を前掛けで拭う気力すらなかった。太ももは破裂しそうなほどに熱く、自分の意志では指一本動かせそうにない。
井口はしばらくフンと鼻を鳴らし、へたり込む結愛を冷ややかな目で見つめていたが、やがて店のアナログな木製引き戸をガラガラと開けた。
「健矢、そのひよっこを土間に上げな」
数分後。古い町家の薄暗い土間に敷かれたゴザの上で、結愛は背中を壁に預けてどうにか上体を起こしていた。目の前の使い込まれたローテーブルに、コトリと湯気を立てる大きなお椀が置かれる。
「……? これは……」
差し出されたのは、美しい琥珀色のスープだった。ドームの無菌室で配給されていた、完璧に栄養素を計算された無色透明のバイオ・リキッドとは完全に異なる、濃厚で香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「うちの古漬けの根菜と、生身の鶏で出汁をとったスープだ」
井口は腕を組んだまま、ぶっきらぼうに言った。
「スマート調理器の再現データじゃねえ。京都の土と水で育った本物の滋味だ。塩分とアミノ酸が、今のそのスカスカな体に一番効く」
結愛は震える手でお椀を持ち上げた。ずっしりとした磁器の重みと、手のひらに伝わる熱が心地よい。恐る恐る口をつけ、一口すする。
「っ……!」
その瞬間、暴力的なまでの「旨味」と、鋭い塩気が凝縮された温かさが、喉を伝って全身の細胞へとしみ渡っていくのが分かった。それは陳腐な欺瞞に満ちた電子的な味覚補正などではない。大地の泥臭さと生命の力強さが混ざり合った.....本物の食の感覚。
「おいしい……美味しいです……!」
結愛の目からじんわりと涙が溢れ、スープの表面に波紋を作った。
「ふん。美味いだろ。スクラップどもがいくら脳内に幸福シグナルを送ろうが、リアルな味覚と同時に胃袋に質量が乗っかる感覚だけは再現できねえよ」
井口は少しだけ表情を緩め、健矢に向き直った。
「で、健矢。このひよっこをどうする気だ? まさか、次の『スプリント・ラリー』に出すつもりじゃねえだろうな」
「そのつもりだ」
健矢はコーヒーの代わりに井口が出したほうじ茶をすすりながら、静かに、しかし断固とした声で言った。
「この鉄馬 には、一切の.....何の電子アシストも積んでねえ。カンチブレーキにはそれなりの握力が要るし、特にフロントギアの変速なんかは指先にしっかり力を入れなきゃ動作しちゃくれねぇ。だが、この往復をやり遂げたら......次のステップへ進む。生身の足で風を切り裂く感覚を、このドーム出のネズミの...骨の髄まで叩き込んでやる」
結愛は熱いスープを飲み干し、空になったお椀を両手で握りしめた。
まだ足の震えは止まらない。しかし、生身のスープが与えてくれた熱は、確かに彼女の胸の奥で、明日のスプリントへ向かう小さな炎へと変わっていた。




