第36話:【はじめての数キロメートル、風の重さ】
「待って……待ってください、健矢さん……っ!」
千本通を南へ下るアスファルトの上で、結愛は悲鳴に近い息を漏らしていた。
視界の先には、純白の『PINARELLI F50』に跨がり、まるで散歩でもするかのように軽やかにペダルを回す健矢の背中がある。
その速度は時速二十キロメートルにも満たない、ロードバイクにとっては文字通りの徐行だ。
だが、結愛が必死にしがみついている深緑の鉄馬『ARARA TED』は、容赦なく彼女の未熟な筋肉からエネルギーを削り取り、乳酸を無慈悲に溜め込んでいく。
「おい、ケイデンスが落ちてるぞ、結愛。ギアをもう一枚落とせ」
健矢は振り返りもせず、冷淡に声を飛ばす。
「む、無理です……足が、上がらなくって……!」
結愛の網膜VRには、シオンとイズミがバックグラウンドで共同構築した臨時の「心拍・ケイデンス管理モニタ」が冷徹な数値を刻み続けていた。心拍数はすでに160を突破し、画面の隅で警告の赤ランプが点滅している。
『結愛ちゃん、落ち着いて深呼吸です! 吸って、吐いて! 心肺機能のアシストはありませんが、効率的なペダリングの軌道だけ、視覚ガイドで重ねます!』
イズミの高密度な有能ボイスが耳の奥で響き、網膜上に青い矢印のガイド線が走る。だが、どれほど効率的な軌道を示されようとも.......重いクロモリフレームを動かす動力源は、結愛自身の大腿四頭筋を除いて存在しなかった。
ガタガタ、とフロントフォークから直に伝わる道路の微振動が、手首を通じて脳を揺さぶる。
ドームの無菌室にあるクレイドルでは、重力すら擬似的に制御され、風はただの心地よいデータとして肌を撫でるだけだった。
しかし、今の京都盆地を吹き抜ける冬の風は、まるで目に見えない壁のように結愛の行く手を阻み、冷たく乾いた空気で肺の奥を痛烈に刺激する。本物の風にはこれほどの質量と冷たさがあるのかと、彼女は今更ながら恐怖していた。
「シオンさん……何か、ちょっとだけでも、出力を楽にする方法はないの……っ?」
結愛がハンドルを握りしめながら縋るように呟くと、網膜VR端末の骨伝導スピーカーからシオンの合成音声が返ってきた。
「却下します、結愛氏。マスターの厳格な『ひよっこ育成プロトコル』に基づき、私は現在、あなたのバイタル監視以外の全介入をロックされています。生身の世界とは、このように理不尽で、重く、そして息苦しい場所なのです。どうかその風の重さを、人類の遺産として噛み締めてください」
「そんなあ……!」
千本丸太町を左折し、丸太町通を東へと進む。わずかな緩斜面。健矢にとっては平坦と同義のその傾斜に差し掛かった瞬間、結愛の足がピキリと音を立てて止まりそうになった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
汗が目に入り、視界が滲む。ドームを出てから数キロメートル。一般のサイクリストならほんの数分の距離が、今の結愛にとっては世界の果てを目指すほどに過酷な「煉獄」の道のりだった。
前方を走る健矢の白いF50が、じりじりと遠ざかっていく。
置いていかれる――その恐怖がよぎった瞬間、結愛は奥歯を血が滲むほどに噛み締め、TEDの茶色のバーテープを力の限り絞り込んだ。
「私は……戻らない……っ! あんなカプセルの中にだけは、絶対に……!」
泥臭く無様に頭を揺らしながら、結愛は再びペダルを踏み込んだ。その重い鉄の塊は、彼女がサボれば即座に立ちゴケする。しかし、踏み込めば踏み込んだ分だけ確実に.......西陣の冷たいアスファルトを削って前へと進み始めた。




