第35話:【深緑の鉄馬と、ひよっこのサドル】
「痛っ……つ、つうう……!」
西陣の古い町家、その薄暗い土間に設置された臨時のリハビリスペース。結愛は太ももの裏側――ハムストリングスを両手で押さえながら、無様に畳の上へと転がった。
クロとのボール遊びや、イズミが調達した『完熟イチゴミルク味』の超効率プロテインのおかげで、彼女の肉体にはわずかながら「芯」が通り始めていた。しかし、ドームの無菌室で育った人間にとって、重力下でのスクワットや自重ストレッチは、依然として骨の髄まで軋むような地獄の責め苦に等しい。
「大丈夫ですか、結愛ちゃん! 無理はいけません、今すぐ心拍数を下げて、乳酸の分解プロトコルを――」
エプロン姿のイズミが、茶髪のゆるふわな髪を揺らしながら、心底心配そうに駆け寄る。その脳内では、結愛のバイタルデータを最適化するための演算が目まぐるしく走っているはずだった。
「いいや、そのまま転がしとけ」
冷淡な声が、カウンターの奥から飛んでくる。
山崎健矢は、使い込まれたリネンのエプロンをきゅっと締め直しながら、手元にある一杯のブラックコーヒーに視線を落としていた。
「ドブネズミの筋肉がちょっとばかり人間の形になったからって過保護にするな。その程度で根を上げるなら今すぐ行政の『家畜クレイドル』に送り返して、脳内に幸福ペーストでも注いでもらった方がお互いのためだ」
「もう、健矢さん! 結愛ちゃんは本当に頑張っているんですよ!? これでもドームの平均的なリハビリ速度の142%を記録しているんですから!」
イズミがハキハキとした有能ボイスで抗議するが、健矢はそれを鼻で笑った。
「その『パーセント』ってやつが、いかにも機械の家畜らしい発想だ。生身の世界じゃ、動けなくなった奴から死ぬ。それだけだ」
健矢はコーヒーを一口すすると、土間の奥にある重い木製の扉を開けた。そこは普段、彼が愛機である純白の『PINARELLI F50』をメンテナンスしたり、各種機材を保管しているガレージへと繋がっている。
結愛が畳の上で息を整えながら見つめる中、健矢が奥から「何か」を持ってきた。
ガラガラと、重い金属の引きずる音が静かな町家に響く。
「……え?」
結愛は思わず目を丸くした。
健矢が土間のコンクリートの上にスタンドを立てて置いたのは、一台の自転車だった。
しかし、それは彼が世界を激変させたあのスマートで鋭利な『F50』とは、あまりにもかけ離れていた。
太く頑丈なクロモリ製のフレームは、深い、深い森のような深緑色。前後には無骨な金属製の泥除けが標準装備されており、ドロップハンドルには茶色のバーテープが巻かれている。タイヤもロードバイクより一回り太く、どこか古典的で、文字通りの「重い鉄の塊」としての質量感を放っていた。
「ARARA TED」
健矢が短いクランクのあたりを爪先で軽く叩いた。
「ランドナーと呼ばれる、大昔の旅用の自転車だ。当然、高価格帯のカーボンフレームみたいなエアロ形状の恩恵もなけりゃ、スマート追尾システムもついてねえ。お前がまともに.....自転車くらいまともに転がせるようになるまでの間、こいつを貸してやる」
「私に……これを?」
結愛は這い上がるようにして立ち上がり、恐る恐るその深緑のフレームに触れた。ひんやりとした冷たい金属の感触が、手のひらを通じて生々しく脳へと伝わってくる。
「……重い」
「重いだろ。計量化なんてクソ食らえって思想で作られた鉄馬だからな」
健矢は腕を組んで、冷ややかに結愛を見下ろした。
「だが、頑丈さだけは折り紙付きだ。お前みたいなひよっこが何回すっ転ぼうが、フレームが折れることはない」
「結愛氏」
その時、健矢の肩のあたりにフローティングしていた、あるいは店内のスピーカーと同期したシオンの物理端末が、静かにカメラアイを明滅させた。慇懃無礼な、しかしどこか楽しげな合成音声が響く。
「マスターの言う通り、その TED は非常にアナログな機材です。私たちの演算によるルート最適化や風向きの相殺アシストなどは、一切その機材の駆動系には介入できません。ペダルを踏めば踏んだ分だけ進み、サボればその場で立ちゴケする。これ以上ない『教育的受難』の道具と言えますね」
「シオンさんまで……!」
結愛は年代物のランドナーのハンドルを握りしめ、唇を噛んだ。
「いいか、結愛」
健矢がコーヒーカップをカウンターに置き、まっすぐ彼女の瞳を射抜いた。
「ただ部屋の中で猫と遊んでりゃ何とかなる時期は終わりだ。最初の中距離目標を指定する」
健矢は指を一本立て、西の方角を指し示した。
「西陣のこの店からスタートして、堀川松原にある『井口漬物店』まで行って帰ってくること。それがお前の最初の課題だ」
「い、いぐちさんの……八百屋……じゃなくて、漬物屋さんですか?」
「そうだ。俺の抵抗者仲間で、『食の砦』を守ってる頑固親父の店だ。そこまで自力でペダルを回し、往復を達成しろ。距離にすりゃ往復でわずか十数キロ程度だが……今のスカスカなお前には、ヒマラヤ登山並みの地獄に見えるはずだ」
健矢は容赦なく告げると、工具箱から一本の六角レンチを取り出し、結愛の足元へ放り投げた。
「サドルの高さ調整くらい、自分でやれ。そんなことも出来んようなら、またクレイドルに閉じこもっていた方が幸せってもんだ。」
金属音が土間に高く響く。
結愛は深緑のクロモリランドナーの冷たいサドルを見つめ、それから.....床のレンチを拾い上げた。その手はまだ少し震えていたが、瞳の奥にある「人形」を拒絶した光は決して消えていなかった。




