閑話③:【可愛いは正義】
「えいっ……!」
予備物件の町家の畳の上で、結愛は小さなゴムボールを部屋の隅へと放り投げた。
カプセルから脱出したばかりの彼女にとっては、手首のスナップを利かせて物体を数メートル先へ投げるという行為だけで、肩の筋肉がじわりと熱くなる。
「にゃーん!」
その瞬間、足元で待機していたタキシード猫のクロが力強く畳を蹴った。弾んだボールを器用に前足で叩く。そして、「早く次を投げて」と言わんばかりに、キラキラとした瞳で結愛を見上げた。
「ふふ、クロちゃん、はい、どうぞ!」
結愛は落ちたボールの場所へ移動し、再びボールを拾い上げ、逆の隅へと投げる。クロがそれを全力で追いかける。
傍から見ればただの微笑ましい「猫とのボール遊び」だ。しかし、地球の重力にまだ適応しきっていない結愛にとっては、しゃがんでボールを拾い、立ち上がり、狙いを定めて投げるという一連の動作の繰り返しは、地味にハードな全身運動(自重トレーニング)と化していた。
すでに額にはうっすらと汗が滲み、呼吸も少し上がっている。だが、無邪気にボールを追うクロの姿があまりにも愛らしくて、やめる気にはなれなかった。可愛いは正義なのだ。システムに管理された無菌室には決して存在しなかった「生身の癒やし」が、今の結愛の最高のリハビリのモチベーションになっていた。
そんな二人の様子を、格子戸の隙間から腕を組んで眺めている男がいた。健矢だ。
「……あいつ、遊びのつもりだろうが、大腿四頭筋と広背筋をそれなりに使ってやがるな」
健矢は手元にあるタブレットの画面に視線を落とした。そこには、シオン経由で送られてくる結愛の最新の筋密度データが表示されている。まだまだドブネズミ以下だが、ほんの少しずつ、肉体に芯が通り始めていた。
「筋肉の超回復を促すなら、このタイミングでのタンパク質補給が不可欠だな」
健矢は自分のトレーニング用として常備している、無添加・ノンフレーバーの超高濃度ホエイプロテインの巨大な袋をチラリと見た。プロサイクリスト御用達の、味気なさとプロテイン特有の生臭さだけが際立つ「ガチ勢向け」の代物だ。
「……流石にこれをあいつに飲ませたら、泣いて吐き出すか」
健矢が珍しくそんなことを考えていると、背後からトコトコと足音が聞こえ、エプロン姿のイズミが音もなく隣に並んだ。
「賢明な判断です、健矢さん」
通常モードの口調で、イズミが淡々と告げる。
「ドームの栄養ペーストで育った結愛ちゃんにとって、そのストイックすぎるプロテインは味覚テロになり得ます。最悪の場合、リハビリに対するモチベーションが完全に崩壊する危険性があります」
「じゃあどうすりゃいいんだよ。あいつ、どんな味が好みなんだ?」
「結愛ちゃんの管理データによれば、VR空間内の疑似味覚において、彼女が最も高い脳内報酬を記録したのは『完熟イチゴミルク味』および『焦がしキャラメルマキアート味』です」
イズミから提示されたあまりにも女子高生らしいフレーバー名に、健矢は露骨に眉をひそめた。
「なんだそのお菓子みたいな名前は。本当にタンパク質入ってんのかそれ」
「ご安心ください。現代のスマートサプリメント市場には、生身の嗜好性に特化しつつ、吸収効率を最大化したジュニア・レディース向けの製品が多数存在します。こちらにリンクを共有します」
健矢の網膜に、パステルカラーの可愛らしいパッケージのプロテインが次々と表示される。
健矢は「チッ、面倒くせえな」と毒づきながらも、結愛の筋肉の成長(とリハビリの継続)のために、最も成分バランスが良く、イズミが太鼓判を押した『完熟イチゴミルク味』のプロテインをその場で画面をタップして発注した。
「ふふ、ありがとうございます、お兄ちゃん」
いつの間にかボール遊びを終えた結愛が、クロを抱っこしながら廊下へ顔を出して、嬉しそうに微笑んだ。
「お兄ちゃんって呼ぶな~~~!」
西陣の静かな町家で、猫と戯れる少女と、それを冷たく突き放しながらもせっせと専用プロテインを買い与えるサイクリスト。健矢の不器用な「保護」は、重力の下で着実に結愛の肉体を作り変えつつあった。




