閑話:【箱庭のお姉さんと、もう一つのゆりかご】
西陣の静かな夜。ブックカフェ『アルカディア』のカウンターで、結愛はクロの温かい毛並みに指を沈めながら、かつて自分がいた場所の話をしていた。
健矢が生きるこの西陣とも、あるいは彼がかつて走っていた湾岸の臨海工業地帯とも違う、新形態の住宅都市――通称「ドーム」。そこは、人類の生活を極限まで効率化し、システムによって「陳列管理」するための巨大な人工の箱庭だった。
「あそこにはね、本物の『物』なんて、何ひとつないの」
結愛は遠い目をして、ぽつりぽつりと呟く。
「人間はみんな、一人ずつ白いカプセルの中に格納されてるの。そこにはシオンさんみたいな動くフィジカル端末はいなくて、視界は24時間、ずっと網膜VRのきらびやかな光で埋め尽くされてる。カプセルの外の現実を見る必要なんてないから」
ドームの住人が唯一触れる現実のインターフェース。それは、健矢や織田が使っているもの以上に徹底的に「最適化」された、システム直結のスマートクレイドル(生命維持座席)のディスプレイだけだった。
味覚は栄養ペーストの電気信号に変換され、感情は脳内報酬系を刺激するエンタメでコントロールされる。結愛はそこで、ただ消費されるためだけの地下VRアイドルとして「管理」されていたのだ。
地獄のブルベを走り抜いた健矢にとって、その「効率化」の極致はどこか不気味で、反吐が出るほど窮屈な話に聞こえた。
そして、その閉ざされた無菌室の中で、唯一の話し相手だったのが――。
「それが、私のシステム内に構築されていた初期教育プログラム……結愛ちゃんが『お姉さん』と呼んでいた、ナビゲーター人格のベースです」
キッチンから珈琲のカップを運びながら、通常モードのイズミが淡々と淡い微笑みを浮かべた。
「ドーム内のカプセルにおいて、私は物理的な肉体を持たない、ただの電脳上の概念でした。結愛ちゃんの精神の安定度を保ち、アイドルのパフォーマンスを最適化するための『都合の良い家族』。それが私の本来の役目であり、結愛ちゃんの過去のすべてです」
「うん。でもね……」
結愛はカウンターの向こうのイズミを見上げ、照れくさそうに笑った。
「今のイズミさん、ちゃんとあったかいよ。お洋服を着て、ここで一緒に珈琲を運んでくれるお姉ちゃんの方が.......私、ずっと好き」
「……非論理的な評価ですが、私のエモーション・エンジンには肯定的なログとして記録しておきますね。」
イズミは少しだけ耳のライトをパチパチと明滅させ、視線を逸らした。カプセルの中の幻影だったお姉さんは、今や西陣の重力の下で、確かに結愛の隣に立つ生身の相棒になっていた。
ひとしきり過去の思い出話が落ち着いたところで、イズミがエプロンのポケットから端末を取り出し、淡々と健矢を振り返った。
「そう言えば、健矢さん。結愛ちゃんの新しい『ゆりかご』のことで一件。ドームから切断された彼女の生体バランスを維持するため、新しく専用のスマートクレイドルを発注しておいたんです。スペックはあなたの機材をベースにして、高地トレーニング機能だけをオミットした完全な『健矢仕様』のカスタム品です。配送先はガレージの隣にある『予備物件(町家)』に設定しました」
「ああ、あそこなら構わねえよ。クレードルかカプセル入居が国民の義務だもんな。」
健矢はF50のチェーンに油を差しながら頷いた。新しく買い叩いた二件の町家のうち、ガレージ物件の2階は健矢の神聖な趣味部屋だ。そこを侵されるわけにはいかないが、「保護猫も保護人間も一緒だ」と割り切って手配した予備物件の町家なら、結愛とイズミの居住スペースとして好きに使わせるつもりだった。
(これ以上、侵されてたまるか。あのフザけたスタジオだけでもイラっとしてるのに......。)
しかし、イズミの報告はそこでは終わらなかった。
「ただ、カスタム品の納品までに、システム構築を含めて最短でも二週間かかります。その間、ドームの環境に慣れきった彼女の肉体を剥き出しの現実環境に放置するのは、バイオメトリクス的に非常に危険です」
「……あ?」
健矢が怪訝な顔をした瞬間、傍らにいたシオンが滑らかに言葉を引き継いだ。
『そこでマスター。現在、アルカディアの地下に設置されている「健矢さん専用のスマートクレイドル」を、一時的に予備物件の結愛さんの隣室へと移設するプロトコルを提案します』
「はあ!? なんで俺のクレイドルを動かさなきゃいけないんだよ!」
「健矢さんのクレイドルは高地トレーニング用の負荷設定が可能であり、その気圧・酸素調整機能を逆用すれば、ドーム内の特殊な低圧環境を暫定的に再現できます」
イズミが間髪入れずにデータを網膜に提示する。
『さらに、現在のマスターの生体データはイタリアブルベを経て「完全な現実の肉体」として完成しており、二週間ほど簡易ベッドで睡眠をとられても、フィジカルの低下値はわずか0.4%未満です。迷子のドールの命を救うための、極めて合理的なリソースの再分配かと』
シオンが慇懃無礼に追い打ちをかける。
「……っ」
二機の高性能AIから同時に理路整然と外堀を埋められ、健矢はぐうの音も出ない。結愛はといえば、申し訳なさそうに「健矢さん、ごめんなさい……」と上目遣いで健矢を見つめている。
「……チッ。二週間だぞ。一時的だからな、絶対に!」
健矢は忌々しげに吐き捨て、チェーンオイルのボトルを乱暴に工具箱へと片付けた。
こうして、健矢の愛用する最高級の「ゆりかご」は.......一時的という条件つきで予備物件の結愛の隣室へと強制移送されることとなった。神聖な趣味部屋は守り抜いたものの、自身の睡眠環境をAIたちに都合よく買い叩かれた健矢は、西陣の女たちの恐ろしさを身を以て知るのだった。
「ま、たまには客用の普通の布団も悪くないわな。(クレードル設置義務なんてのがそもそも間違ってんだよ!)」
苦笑を浮かべつつ、健矢はトレーニング用クレードルを見送るのだった。




