閑話①:【F50の特等席、あるいは男の隠れ家(とDJの悪ノリ)】
「Fooooooooooo!」
京都・西陣の細い路地に、およそ似つかわしくない絶叫が響き渡った。
声の主はシリコンバレーの騒がしいDJではない。普段は無愛想の塊のような男――健矢だった。
行政AIのドロイド軍団が去り、一時的な緊張状態が解除された数日後。ブックカフェ『アルカディア』のすぐ近所に佇む長いこと主を失っていた二件の古い町家の改装と引き渡しが、突如として完了したのだ。
一件は、今後のための予備物件。
そしてもう一件が――健矢の理想を詰め込んだ、専用の「整備ガレージ物件」だった。
ガラガラと引き戸を開けると、1階の手前には広々とした土間が広がり、そこが丸ごと「自転車整備ガレージ」になっていた。健矢は弾むような足取りで滑り込み、イタリアの地獄を共に生き抜いた純白の相棒・PINARELLI F50を、中央の油圧式メンテナンススタンドへ恭しく設置。
そして、店の奥に佇んでいた現地観戦用のTEDを部屋の端に寄せる。
「ハハハ!おい、見ろよシオン! このツールキャビネット、Skip-offの特注色だぞ! トルクレンチもデジタル補正機能付きの最高級品じゃねえか!」
まだオイルの匂いも新しいピカピカの整備機材や工具類を一つ一つ手にとっては大はしゃぎする健矢。その傍らには、エプロン姿の管理AI『イズミ』のフィジカル端末が静かに佇んでいた。通常モードの口調に戻った彼女は、妙に家庭的な雰囲気を醸し出しながら健矢の工具コレクションを眺めている。
「健矢さん、あまりはしゃぎすぎると大腿四頭筋が予期せぬ収縮を起こしますよ。ですが、この1階の手前ガレージから奥の居住スペースへ続く動線は、整備動線として実に合理的です」
そう、この1階は、土間と2階へ続く階段に挟まれるように部屋が配置されたこだわりの間取りになっていた。手前のガレージで思う存分汗と油に塗れた後、奥へと進むと――。
「……って、おい。奥の部屋は何だこれ」
ガレージのすぐ奥、風呂とトイレの手前に並ぶように配置された部屋のガラス戸を開けた瞬間、健矢の顔からすーっと血の気が引いていく。
そこには、どう見ても自転車の整備には関係のない、サイケデリックなLEDが明滅する超巨大なミキシングコンソール、壁一面を埋め尽くす特注の巨大ウーファー、そしてターンテーブルが鎮座していた。クラブが丸ごと一件引っ越してきたかのような、完全防音仕様の「音響資材ルーム」である。
「シオン。俺、『(中嶋の大将が使ってるみたいな)パーツ洗浄用の超音波カッターを置くスペースを奥に作ってくれ』とは頼んだけど……こんな、街をワンブロック丸ごと重低音で吹き飛ばしそうなレイブ会場を併設してくれなんて、一言も言ってないぞ」
『肯定します、マスター』
シオンの物理端末が、楽しげにカメラアイを傾げた。
『そちらの奥の部屋は、シリコンバレーのDJチームより、「特異サンプルの亡命記念および、結愛の自重リハビリ配信用スタジオ」として、健矢さんの名義で勝手に機材が送り付けられ、爆速で施工されたものです。彼ら曰く、「京都の歴史ある町家で流すディープ・ハウスは最高にキマる」とのことです』
「あいつら……!!」
こめかみに青筋を立てる健矢を置いて、イズミはトコトコと音響ルームへ歩いていくと、ターンテーブルのスイッチを滑らかに指先でなぞった。
「素晴らしいですね。結愛の体幹トレーニングの際、BPM128のテクノを流せば、スクワットの効率が15%向上するというデータがあります。1階の奥で爆音を鳴らし、そのまま横のお風呂へ直行させるリハビリメニューを構築しましょう」
「おい、待てイズミ! お前まであいつらの悪ノリに染まるな!」
頭を抱えた健矢は、現実逃避するように階段を駆け上がり、2階へと避難した。
しかし、その2階の扉を開けた瞬間――健矢の目は再び輝きを取り戻した。
「……うおお、すげえ……!」
2階は1階の喧騒が嘘のように、贅沢極まりない広大な「コレクションルーム」が広がっていた。美しい木目の壁と床には、これから増えていくであろう歴代の名車たちを10台ほど並べて飾れるサイクルラックが整然と設置されている。部屋の隅には、冷えたドリンクをいつでも取り出せるミニ冷蔵庫と簡易キッチンを完備。
そして部屋の真ん中には、イタリア遠征でボロボロになった健矢の肉体を癒すためにシオンが手配した、最新鋭の「スマートマッサージチェア」が王者のように鎮座していた。
窓の外には西陣の静かな街並みが広がり、すぐ下からはF50の佇むガレージの気配と、うっすらと漏れ聞こえるDJたちの重低音。
「最高だな……(音響ルーム以外は)」
健矢はマッサージチェアに深く身体を沈め、贅沢な趣味空間の感触を噛み締めていた。西陣の静かな路地にまた一つ、都市管理AIの手の届かない生身の狂気とこだわりが詰まった「聖域」が完成した瞬間だった。




