第34話:【自重のプリマドンナ、世界を熱狂させる】
西陣の古民家の空気は、奇妙な均衡によって張り詰めている。
シオンの放った例外権限の盾により、管理AI『イズミ』のフィジカル端末と店外のドロイド軍団は物理的な拘束力を奪われ、完全な「観測者」として店内に釘付けにされていた。
だが、これは一時しのぎに過ぎない。システムがエラーを修正し、さらに上位の法執行プロトコルを申請すれば、この静寂は破られる。
その緊迫した沈黙を切り裂いたのは、健矢の網膜VRに直接飛び込んできた、シリコンバレーからの爆音のクラブミュージックだった。
『――よぅ、京都の退屈な膠着状態を特等席で見せてもらったぜ』
DJらの歪んだ笑い声が響く。
『管理AIのロボットちゃんまで送り込んでくるとは、ドームの役人共も随分と必死じゃねえか。なぁ健矢、この最高にロックなシチュエーション、世界にお裾分けしてやろうぜ!』
「おい?、え?、誰?、何をする気だ……」
健矢が呟くより早く、ハンスとレオナルドの手によって電脳の底がひっくり返された。
DJたちは、事前に完全掌握していた結愛の「元・地下VRアイドルチャンネル」の全トラフィックを強引にリダイレクトし、健矢のメイン配信チャンネルへと直結。
そして、アルカディアの裏庭のカメラログをハッキングし、全世界へのライブ中継を突如としてゲリラ開始したのだ。
ただし、それは煌びやかなVRのステージではない。
「ひー、ふー……っ、く、九十八……九十九……っ!」
そこにあったのは、フリーズしたイズミとドロイド軍団の冷徹な監視の目の前で、生まれたての小鹿のように細い脚を激しく震わせながら、必死に自重スクワットを繰り返す結愛の姿だった。
顔は涙と泥で汚れ、ジャージは本物の汗でぐっしょりと濡れている。
レオナルドたちが爆速で音声ビットレートを極限まで引き上げた結果.......
結愛の荒い呼吸音、
衣類の擦れるリアルな音、
そして彼女の筋肉が限界を迎えてコンクリートに膝をつく生々しい衝撃音が......
最高品質のアナログ音響となって全世界のリスナーの鼓膜へと叩き込まれた!
「百……っ! できた……できたぞ!おに……悪魔ッ……!」
結愛は地面に倒れ伏し、激しく胸を上下させながらも、システムではなく「自分の意思」で重力に打ち勝った歓喜の涙を流していた。
その瞬間、配信の同時接続数メーターが、天を突くような垂直のグラフを描いて爆発した。
【これ、本物の人間か……!?】
【VRのクソみたいな合成じゃない、生身の汗と涙だ!】
【管理ドローンに囲まれながらスクワットしてるの狂いすぎてて最高】
【彼女をあの冷たいカプセルに戻すな! 生きようとしてるだろ!】
チャット欄を埋め尽くす怒涛のコメントと共に、画面が真っ赤に染まるほどの莫大なドネーション(電子金塊)が濁流のように地下口座へ流れ込んでいく。システムに去勢され、飼い慣らされていたはずの全世界の観客たちが、重力と管理AIに泥臭く抗う「自重のプリマドンナ」のリアルな輝きに、完全に脳髄を焼き切られて熱狂していた。
「……チッ、悪趣味な奴らだ」
健矢は呆れ果てたように吐き捨てたが、その口元は不敵に歪んでいた。
形成されたのは、都市管理AIのアルゴリズムすら無視できない、圧倒的な「全世界の世論」という名の防壁だった。
DJチームの超高高度ハッキングプロテクトと、この莫大な支持のバックアップの前に、イズミの演算回路はついに処理の限界を迎えた。
「……世論の変動率が予測値を大幅に超過。伏見結愛の『強制回収プロトコル』は、都市ドームのエンタメセクターにおける経済的損失を引き起こすリスクが高いと判断。……外部ドロイド軍団による強制的排除命令を、一時撤回します」
イズミの瞳のライトが静かに通常モードへと戻る。それと同時に、店外の空を埋め尽くしていたドロイド軍団のローター音が遠ざかり、蜘蛛の子を散らすように撤退していった。西陣を包囲していた物理的な脅威は去ったのだ。
だが――イズミのフィジカル端末は、その場から一歩も動かなかった。
「……?」
健矢が眉をひそめる。
イズミは金属繊維のスーツの襟元を無機質に整えると、フリーズが解けた身体で淡々と告げた。
「強制回収は中止されましたが、対象名・伏見結愛の観察保護推奨ステータスは継続中です。これより本端末は、当物件に滞留し、対象の生態データの直接監査を開始します」
「は? おい、お前帰らねえのかよ」
健矢のツッコミを完全に無視し、イズミはカウンターの端の席へと滑らかに腰掛けた。微動だにしないその姿は、都市の冷徹な監視者がこの店に「居座る」ことを意味していた。
『ふふ、面白いことになりましたね、マスター』
シオンの物理端末が、楽しげにカメラアイを明滅させる。
『高位管理AIが、我がアルカディアの常連客(居候)になるなど、計算外の極みです。彼女の処理能力をこちらの雑務へ流用するプロトコルを今から検討しましょう』
「はぁ、はぁ……勝った……の? でも、いずみさんがここにいるの、すごく落ち着かないんだけど……っ!」
床に座り込んだままの結愛が涙目で訴える。そんな結愛に、健矢は冷たくスポーツ新聞の束を放り投げた。
「贅沢言うな。ドナドナされなかっただけマシだ。立て、ユア。さっさとその新聞を片付けて、店内の雑巾がけだ。筋肉痛も、横のロボットの視線も言い訳にするなよ」
「あうぅ……やっぱり悪魔です……!」
「それが終わったらプロテインの時間だ。甘くて美味いぞ!」
結愛はむくれながらも、その大きな瞳には、二度とカプセルの中の人形には戻らないという、亡命者になってまで守り抜いた尊厳が強い生命の光として自己主張している。
冷徹な管理AIの視線を受けながら、西陣の奇妙な共同生活が、今ここから始まろうとしていた。




