第32話:【重力の檻と、スポーツ新聞】
「おい、遅いぞ。足がもつれてやがる」
西陣の静かな路地。健矢は純白のPINARELLI F50のサドルに跨がり、歩くほどの超低速でゆっくりとペダルを回していた。
その後方を結愛は必死の形相でついてきていた。いや、ついていくというより、地球の重力という見えない泥沼の中で、這いつくばるようにして足を前へ進めていると言った方が正しかった。
カプセルから脱出したばかりの結愛にとって、ロードバイクに乗るなど論外中の論外だった。まずは「自分の足で歩き、走る」という最低限の肉体のコントロールを取り戻すこと。それが健矢の課した最初のリハビリだった。
「はっ、ひー、ふー……っ」
結愛の呼吸は完全に乱れ、ジャージの胸元は生身の汗でびっしょりと濡れていた。カプセルの中ではかくことのなかった、不快で、しかし圧倒的にリアルな代謝の証拠だ。
「今日の目的地はあの角の新聞自販機だ。あそこでアナログな『スポーツ新聞』を一部買ってこい。それが今日の最初のミッションだ」
健矢が指差したのは、昭和の遺物のように路地に佇む古びた新聞の自動販売機だった。
スマートシティでは電子ペーパーすら過去のものとなり、情報は大脳皮質へ直接プロトコル送信されるのが当たり前だ。そんな時代にあって、わざわざ「紙」という質量のある媒体を購入し、その重みを感じながら持ち帰る。それ自体がリハビリのパッケージだった。
昨夜のナイターで健矢が贔屓にしていた球団の主砲が勝ち越しホームランを決めたのも、運命のいたずらだったのだろうか。
結愛はガクガクと震える膝を両手で押さえながら、自販機の前になだれ込んだ。コインを投入し、重いレバーを引き抜く。ガチャン、と無骨な金属音が響き、取り出し口に滑り落ちてきた朝刊の束。
指先で掴んだ瞬間、結愛はその「紙の重み」に文字通り顔をしかめた。インクの匂いが鼻腔を突き刺す。
「よし、買えたな。じゃあ店に戻るぞ。後半戦だ」
「え……っ、まだ、あるんですか……!?」
絶望的な声を上げる結愛を置き去りにするように、健矢はさっさとF50の向きを変えてペダルを踏み込んだ。結愛は泣きべそをかきながら、スポーツ新聞の束を胸に抱えてその後ろを必死に走った。
──『アルカディア』に戻ってからは、さらに泥臭い地獄が待っていた。
「腰落とせぇ、膝が爪先より前に出んな。体幹を意識しろ」
カフェの裏庭で、結愛は自重スクワットを行っていた。健矢が冷酷にカウントを取る。大腿四頭筋はすでに限界を迎えており、生まれたての小鹿のように細い脚が激しく小刻みに震えている。
「うう……足が、ちぎれる……っ、おに……悪魔……!」
『伏見結愛氏、データによればアナタの大腿部の乳酸値は基準の三倍に達していますが、構造上、肉体が破壊される領域にはまだ遠く及びません』
網膜通信の向こうから、居残ってクロを撫でているシオンの懃懃無礼な声が脳内に降ってくる。
『現在のアナタの出力低下は、物理法則に対する純粋なサボり、および重力への甘えです。マスターのF50の巡航速度についていくには、少なくともあと二万回のスクワットが必要です。さあ、大臀筋を意識してもう一回』
「あうう……シオンさんまで、いじわるです……!」
結愛の目からボロボロと悔し涙が零れ、裏庭の土を濡らす。
カプセルの中で完璧に管理され、拍手だけを与えられていたドール。だが、今ここで流している涙と汗は、間違いなく彼女自身の筋肉が悲鳴を上げ、五感が重力に抗っている証拠だった。
「あと十回だ。これが終わったらプランク一分を三セット。甘えんな、回らないペダルを踏む筋肉を作れ」
健矢の容赦ない罵声に、結愛は奥歯を噛み締めた。その瞳の奥には、システムに飼い殺されていた頃には決してなかった、剥き出しの「反骨の炎」が確かに灯り始めていた。
店を営んでいるのにスポーツ新聞を購読せず、
わざわざ1部ずつ自販機から購入する理由はこちら(笑)
▼スピンオフ「おりほー」で語られる「非合理」の舞台裏事情
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