第31話:【咀嚼の音、重力の味】
「……食え。」
西陣のブックカフェ『アルカディア』のカウンターテーブルに、コンと鈍い音が響いた。
健矢が結愛の前に突きつけたのは、スマートシティの居住ドームではお目にかかれない、徹底的にアナログな「和食」の膳だった。
ふっくらと炊き上がった白米、油の乗った塩鮭の切り身、そして湯気を立てるワカメと豆腐の味噌汁。
「う……あ……」
ソファにしなだれかかっていた結愛は、怯えたように肩をすくめた。
彼女が堺の居住カプセルの中で与えられていたのは、都市管理AIが栄養素と吸収効率を完璧に計算した、無味無臭の生体栄養ペーストだけだ。
自らのアゴを使い、固形物を「咀嚼」して胃袋に送るという行為そのものが、今の結愛にとっては未知の重労働だった。
「私のスキャンデータによれば、現在の伏見結愛氏の咬筋および消化器官の機能は、長期のカプセル生活によって通常の三〇%以下に低下しています」
カウンターの奥で、シオンの物理端末が冷徹に告げる。
「マスター。いくら生身にこだわるからといって、いきなりこのような固形物を与えるのは、この廃棄寸前のドールに対する一種の拷問ではありませんか?」
「うるせえ。いつまでもペーストなんか食ってたら、いつまで経ちやがってもこいつの肉体はドブネズミ以下だ。肉体を作るのは『噛むこと』から始まるんだよ。おい、ユア。うちの店で飼育されるつもりなら、今すぐそのアゴを動かせ。それが嫌なら、今すぐ荷物をまとめて出ていけ」
健矢の容赦のない突き放しに、結愛の大きな瞳に涙がぶわりと溜まった。
だが、今の彼女には行く宛てなどどこにもない。震える手で割り箸を割り、おぼつかない手つきで鮭の身を小さく毟り、おそるおそる口へと運んだ。
カチ、と歯と歯が噛み合うアナログな音が店内に響く。
「っ……、う……!」
その瞬間、結愛の身体がビクリと跳ね上がった。
舌の上の味蕾を突き刺す、濃厚な塩気と焼き鮭の香ばしい風味。そして、白米を噛み締めるたびに染み出す仄かな甘み。脳内の報酬系をハッキングするVRの電気信号ではない、地球の重力下で育まれた本物の食材が持つ「質量のある味」が、彼女の眠っていた五感を暴力的なまでの鮮烈さで叩き起こした。
ごくり、と喉が鳴る。熱い味噌汁を啜ると、五臓六腑がじんわりと温まっていくのが分かった。あまりの衝撃と美味さに、結愛の瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ち、白米の上へと落ちていく。
「おい、泣いてる暇があったら手ェ動かせや。食い終わったら、次は店内の雑巾がけだ。生身の人間としてここに置いてもらうためのマナーってヤツを叩き込んでやる」
健矢はそう言い残すと、純白のF50のメンテナンスのために冷たく背を向けた。
「ひどい……あんなの、おにです……」
絶望に暮れてうつむく結愛の膝の上に、不意に、ふわりとした温かい塊が飛び乗ってきた。黒白のクロだ。クロは「にゃーん」と小さく鳴くと、結愛の涙で濡れた手を慰めるようにザラついた舌で舐め、その小さな身体をぴったりと預けてきた。カプセルの中には決して存在しなかった、圧倒的な生命の温もり。
『ご安心ください、結愛氏』
シオンの網膜通信が、結愛の頭の中にだけ慇懃無礼に響く。
『我がマスターの言葉は九割がただの照れ隠しであり、本質的には単なるサイクリング中毒の狂犬です。アナタが生命維持に必要なマナーを習得する確率は、現在の私のサポートがあれば九八・八%です。さあ、まずはそのアナログな燃料を全て体内に充填しなさい』
クロの温もりにすがり、シオンの毒舌混じりのフォローを背受けて、結愛は再び箸を動かした。システムに管理された箱庭から零れ落ちた人形の顔に、泥臭くも「生きている人間の意思」が、確かに灯り始めようとしていた。




