閑話①:【有り余るお金の使い方その2】
「シオンよ。生活費を受け取るための口座を作ってくれ。毎月百万円ずつ今の口座から下ろす」
西陣の静かな夜、ブックカフェ『アルカディア』のカウンターで、健矢は淹れたての珈琲を前にそう切り出した。足元では黒白のクロが退屈そうにあくびをしている。
イタリアから帰国して以来、地下の隠し口座には全世界からの配信収益という名の数千万円規模のクレジットが着金し続けており、その額は今も秒単位で増え続けていた。
「畏まりました、マスター。生活費口座の開設および自動送金プロトコルを設定します。……それにしても、毎月百万円とは、現在のこの店での生活水準からすれば随分と大きく出ましたね?」
シオンの物理端末が、慇懃無礼な声音で応じる。健矢はふっと視線を落とし、かつて世界がスマート化される前に存在していた「不動産」や「株」といったアナログな資産運用の手触りを懐かしむように呟いた。
「金なんて使いどころに本気で困るほど出来ちまったんだ。口座を増設したのも視覚的にはちゃんと有限なんだぞって自覚させる装置だからな。」
(使う方が大変なんて貧乏時代にゃ考えられんかったわ.......)
「上限が百万ならいくら俺の貧乏性が酷かろうと、次の百万円までに使い切ることもできるしな。元々、もし大金が手に入ったらロードバイクの保管台数を増やしてコレクションしたかったし。だから、とりあえず近隣の古びた町家を二棟買いたい。一棟は中嶋の大将も使えるような本格的な整備ガレージ、もう一棟は――とりあえず仮って形で保護猫施設用にでもする。」
クロの頭を優しく撫でながら告げた健矢の言葉に、シオンのカメラアイが小さく光る。カプセルから零れ落ちた結愛の一件を経て、健矢の「もったいない使い方をされている生身の人間や生き物」へのスタンスは、より具体的な形を取り始めていた。
「町家の買収および用途変更手続きですね。地下のクレジットをフロントの合法的な資金へロンダリングしつつ、秘密裏に物件を抑えます。他にはありますか?」
「あとは……プロ野球だな。あの球場のシーズンシートを抑えてくれ。今年の枠がもうないなら来年からでいい。それと、旧千代崎駅か旧国鉄大正駅付近、それから神戸の聖地付近に、もし出物の中古コンテナか小さな土地があったらそこも抑えてくれ。そこに『コンテナ駐輪場』を設ける」
健矢の口から出た具体的な地名に、シオンの処理スピードが一瞬だけ跳ね上がった。旧千代崎駅に大正、そして神戸のレジェンドの息遣いが残るほっとな屋外球場。いずれも管理都市化される前の時代に、生身の人間たちが熱狂した球場の周辺だ。
「なるほど。ドーム型シティの外殻を自転車で走り、そのまま球場へ駆けつける狂信的なサイクリストのためのインフラ構築ですか。相変わらず、マスターの金の使い道は都市管理AIの予測モデルを心地よく裏切ってくれます」
「あとのは……何か思いついたら考えるが。シオン、お前からは何かあるか?」
現代の、AIがすべてを管理する世の仕組みに疎い健矢のシオン頼りは相変わらずであった。数千万円規模のクレジットをどう動かせば足がつかないか、一般人が上級国民向けのインフラをどう買い叩くかなど、健矢には知る由もない。
「私からですか」
シオンは一拍置き、衣服の擦れるような上品な仕草で、自身の物理端末のコンソールを操作した。
「では、マスターのその有り余る『地下の力』を使って、中嶋氏のガレージに最新鋭の『ミリ波3Dチタン3Dプリンター』を導入しましょう。これで純白のF50の消耗部品だけでなく、市販されていないヴィンテージバイクのパーツまで完璧に自家鋳造できるようになります。それと――」
シオンのカメラアイが、健矢の顔をじっと見つめる。
「現在ソファで眠っている伏見結愛氏の、都市管理籍からの『完全な抹消と新規偽装戸籍の購入』。これに数百万クレジットほど割り振る許可を。彼女を西陣の合法的な住人にするためです」
健矢は珈琲を一口啜り、不敵に口元を歪めた。
「最高だな。全部任せるわ、俺の優秀なナビゲーター」
西陣の地下に眠る莫大な富は、健矢のあずかり知らぬところで、シオンの手によって世界を少しずつ、しかし確実に「生身の狂気」で侵食するための牙へと変えられようとしていた。




