第30話:【西陣への亡命者(エスケープ)】
無人の休憩所に、無機質なアラート音が鳴り響いた。
結愛の着ている安物の部屋着の襟元に埋め込まれたICタグが、管理区域外への逸脱を検知し、赤く明滅し始めたのだ。
『マスター、猶予はありません。高石市周辺のインフラ管理AIが、彼女を「廃棄予定の迷子ドール」と認識し、回収ドローンをこちらへ向かわせています。到達まであと三分四二秒』
「チッ、施設から逃げ出したオモチャを、すぐにゴミ箱へ回収しに来るってわけか」
健矢は吐き捨て、愛用しているペラペラの輪行袋を広げようとして……手を止めた。軽量化を極めた結愛の身体とはいえ、生身の人間だ。これで背負ってF50を漕げば、袋が裂けるかバランスを崩して共倒れになる。
「シオン、中嶋の大将に繋げ! 『ロードサービス』だ!」
『了解、即座に暗号回線を開きます』
数秒の電子音の後、網膜VRの向こうから、いつもの油臭い声が飛び込んできた。
『よぅ健矢、イタリア帰りでさっそく機材トラブルか?』
「機材じゃねえ、人間だ。高石の臨海地区の休憩所。管理都市のドローンに目を付けられてる。車を出してくれ!」
『……ハッ、お前またとんでもねえ案件引っ提げてんな! 了解!...にしても運が良かったな!ちょうどすぐそこのPINARELLI代理店に寄ってたとこだ!三分で軽トラを回す。ドローンの目はそっちで潰しとけ!』
『DJのバックアップ回線を経由し、接近するドローン三機の索敵アルゴリズムに「光学迷彩のバグ」を逆インジェクション。彼らの網膜を三分間だけ完全遮断します』
「頼むぞ、シオン!」
健矢は結愛を横抱きにし、休憩所の死角へと身を潜めた。ガタガタと震える結愛の耳元で「荒っぽい運転になるが、我慢しろ」と低く告げる。
それから三分もしないうちに、湾岸線の闇を切り裂いて、一台の古びたアイゼット(軽トラック)が猛スピードで滑り込んできた。窓が開き、中から作業服姿の中嶋が顔を出す。
「乗れ! 急げ!」
「悪い、大将!」
健矢は結愛を助手席へ滑り込ませ、自身はPINARELLI F50と共にホロ付きの荷台へと飛び込んだ。すぐさま軽トラはタイヤを鳴らして急発進し、臨海工業地帯の闇へと紛れ込んでいく。遅れて現場に到着した管理ドローンたちはターゲットを見失い、虚空を虚しく旋回するだけだった。
スマートシティの網の目を完全に掻い潜り、大阪から京都へと至る秘密のルートを経て――。
夜の帳がすっかり下りた頃、軽トラは西陣の静かな路地に静かに停車した。
ガラガラと音を立てて、ブックカフェ『アルカディア』の格子戸を開ける。
「大将、助かったよ。店に入ってくれ」
「へっ、とんでもねえお土産だな。おい、お嬢ちゃん、もう安心だぞ」
健矢に支えられながら店内に足を踏み入れた結愛を迎えたのは、いつも通り端正な佇まいで立つシオンの物理端末だった。そして、疲れ果てた結愛がソファへ倒れ込むように座ると、足元から「にゃーん」と小気味よい鳴き声が響いた。黒白のクロが、珍しそうに新しい居候の匂いを嗅ぎにやってきたのだ。
「ひゃうっ……!」
カプセルの中の無菌室で育ち、本物の動物など見たこともなかった結愛は、小さく悲鳴を上げて身を縮めた。しかし、クロは構わずに彼女の細い手首に温かい額を擦り付け、ゴロゴロと喉を鳴らす。
店内を優しく満たす珈琲の深い香りと、古い文庫本の匂い。そして、自分の肌に触れる猫の圧倒的な体温と、毛並みの柔らかさ。
網膜VRの偽物の光の中にしかなかった結愛の機能停止しかけていた脳に、本物の「現実」が暴力的なほどの優しさで染み込んでいく。
「あったかい……これが、ほんものの……」
結愛の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、彼女の汚れた頬を濡らした。中嶋の車のロードサービスによってカプセルから救い出された人形が、西陣の古いカフェの片隅で、生まれて初めて「生きている」という実感に触れて咽び泣いていた。




